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哲学いろいろ

古代日本人は 無神論者?

日本古代人は むしろ無神論をいだいていたのではないかという暴論を試みます。

 大野晋によると 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。
 ○ かみの原義 〜〜〜〜〜
  1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。
  2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。
  3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。
  4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土(うぶすな)神・山つ霊(み)・海(わた)つ霊〕
  5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。

  6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明(あき)つ神・現人(あらひと)神〕
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 ☆ この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――つまりいわゆるアニミズム=すなわち《ものごとにヨリ(憑り)をする》原始心性の――を一段高いところに立って再び採り入れたものと考えられます。それに従えば ほんとうは《見えない》〔つまり(2)〕けれど 仮りに姿を見せたという捉え方および表わし方をおこなった。

 つまりすでにこのように問い求めた定義からすれば われらがおや(祖先)たちは 《超自然・非経験》の領域を 何も表わさなかった。つまり強いて言えば《無い神》を立てていた。


 古事記の初めには アメノミナカヌシ以下三神が登場しますが これらは《独り神となりまして 身を隠したまひき》とあります。一般に思われているアマテラスオホミカミは もっともっとのちの神です。

 どうもこのように――わざと 無神論を見ようと――して来ると 日本人には 《表わさない》=《言挙げせず》という基本線があるのかも知れません。
 朝 日向かしの空より昇る真っ赤なおてんとさまを見て あるいは西の山の端に沈みゆく夕焼けをながめて
  ――あはっ。(ああ! Ah ! Oh ! )
 と口をついて出た。そこに 絶対の神を見たのかも知れません。見なかったかも知れません。これが言われている《ものの〈あは〉れ》であり《随神(かんながら)の道》なのだとも思われます。《隠れたる神 Deus absconditus 》。

 ▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) 〜〜〜
 おほきみは 神にしませば
 天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも
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 ☆ という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。
わたしの解釈では こうです。《世の中の通念は 大君が神であると言う。なるほどそれゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね》と。
 人麻呂には神について 絶対の概念があったからではないですか。《通念は 絶対の神と 相対の神々の世界とを混同している》と述べていませんか。人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にさえ見えない》ことは当然のことだったのでは? (精神論でさえないと)。
 (ただし 外(と)つ国へ出かける友に向けては 別れのあいさつを言挙げぞすると言っています)。


 もっともカミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話しをしたと言う。一言主の神は こう名乗ったそうです。

    あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
    言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ
    (古事記

 でも雄略ワカタケルは日本書紀では 同族を暗殺して《大悪天皇》と呼ばれている人物です。そのことを理解するために カミとヒトおよびモノとコトとの位置づけを見ておきます。

 ○ (モノとコト e = mc^2 ) 〜〜〜〜〜

 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主
  ↓        ↓            ↓
 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ

 * あるいは次の図式も得られます。

 モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木
 日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源)

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 ☆ つまりは 先の(6)のカミは 明つ神もしくは現人神として 《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》なるカミの座に人間が就いたことを意味すると考えられます。
 つまりは 神は《無い神》であって あとは仮りの分身なる神々。