caguirofie

哲学いろいろ

人と人とのきづな

どんでん返し

関係の絶対性という主題のもとに 生きてきた。
これが 自由になるときが 来ると言っていいのかもしれない。
主題をはずさずに しかも あたかも解除になるときがやって来ると言えるのかもしれない。
ヘイポーラ物語のポーラとのことである。あたかもデーモンの作用がもうわたしに対しては効かなくなったというように――不遜ではあるが――感じた。解除の始まりであろう。今日のことである。

〔補注〕(2005/03/13記)たとえば 相手の気持ちや態度やに応じて こちらの姿勢をそれとして決める。気持ちが気持ちであるなら こちらは そのとき――相手の気持ちを受け止め これを解除することなくいつづけるとするなら―― たとえば突っ張らなければならないこともある。
去る者は日々に疎しなのだが おなじく気持ちが気持ちであるなら それの潜在的な受け皿でありつづける必要があるかもしれない。解除せずという姿勢は必要だという事態である。わざと そうしたのではない。構える意識も意思も もう なくなっているにもかかわらず その対応の姿勢は続いたのだと考える。
そして 気持ちが気持ちであるということ つまり その気持ちが情念として相手の中で続いているということ これを感じるのは あたかも 情感の遠隔作用のごとくであると言わざるをえない。三十年 いや 四十年近く 消えなかった。

・・・愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するために或る仕方で還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。
それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。
だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ物体そのものを一緒に引き入れることはできないから 物体の似像を思い廻らし 自分でつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。
その似像をつくり上げるとき 自分自身の実体の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神(mens)であり 判断するため保持されている理性的な知解力(intelligentia)である。物体の類似によってかたちづくられるあの部分を私たちは動物と共有していることを知っている。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論10・5)

デーモン作用ということが 自分にもありうると考えるけれども 長らく放っておいても消えないというとき 相手の側のことをも考えるという経過で来た。その歴史を承けて 相手からの作用が消えたと表現した。

2005-02-06 - caguirofie050206を承けている。
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