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もののあはれを知る
△ (中井久夫:「わたしの日本語雑記」)〜〜〜〜〜〜
「哲学を発展させはしなかったが、間投詞から出たものが中心的な思想を
表してきた文化がある。それは日本文化である。
「あはれ」は「ああ」という感動、詠嘆の間投詞である。Ah-nessとでも
いうべきものが「もものあはれ」を真ん中において「あはれ今年の秋もい
くめり」の無常観から「あはれともいうべき人」ともなり、褒め言葉の
「あっぱれ」までの大きな広がりを作った。
「あはれ」だけで日本文化を尽くせるというわけではないが、間投詞が言
葉を超えた情感を表すものとしてこれだけの広がりと深みとに達している
ことは驚くべきことではないだろうか?」
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☆ ≪間投詞≫ということですが・そして文法上の整理としてその通りなの
ですが もしわたしたちの内発的な自己表出といった観点から見ると そ
れも心に響いた何かを声音にして表わす擬声語であろうと見られます。
(あ) あは! ( Ah! )
(い) あは‐れ ( Ah-ness ) 〔わ⇒われ;か⇒かれ;た⇒たれ〕
(う) あはれ⇒あっぱれ(天晴れ; Bravo! )//あはれ(哀れ・憐れ)
(え) あはれ‐む(憐れむ)
(お) もののあはれ( Ahness of things )
☆ この AoT は あたかもその世界のありさまとして IoTのごとき内容
を擁している。
そこから ひとつに ≪もののあはれを知る≫となればそれは 自分の世界
観のことを言うことになる。
ただし ≪あはれ≫でその世界を示したということは 内容の分析をしてい
ないだけではなく 内容自体についても何も認識したことになっていない。
したがって・もうひとつに われわれの先人たちは この移ろい行く経験
事物のことを捉えるよりは その背後のこと・経験を超えたところのこと
について思いをめぐらしていた。
したがって もののあはれを知ると言えば ひとつに――具体的なものご
とを言わないからには―― 言わばそこでエポケー(判断中断)するかた
ちを採っている。
この世の揉め事やそれに伴なう悩みや苦しみについて おまえさん ちょ
っと待てと言って心の奥の院におもむきそこで静かにしている。
と同時に あらゆる自然およびさらに言わば超自然の場を心に思い巡らせ
ている。
これが 人生哲学であると同時に 一般的な神論であり 個別におのおの
の神観と成っている。キツネやワニが神の権現であったとしても。山や木
や岩そのものが神ではないのだから。
かくのごとく≪哲学を発展させている≫と思われます。
梵我一如にちなんで言うとすれば 霊霊一如なる≪わが固有の時≫であるの
ではないか。マクロコスモスとミクロコスモスとの。
こころなき
身にも
あはれは
知られけり
鴫立つ沢の
秋の
夕暮れ