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哲学いろいろ

Vorsokratiker


谷崎秋彦:古代ギリシアのロゴス
―隠蔽と露呈としてのロゴス―

TANIZAKI, Akihiko :ΛOΓOΣ in der griechischen Antike
―Logos als Entbergung und Verbergung―

http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-25-06.pdf
(あまがっぱ氏より)

ヘラクレイトスの使った《言葉としてのロゴス》を現代のわれわれも使っている!?

p.54
「そのように(*簡略には 世界の中から一定の言葉を)生み落とすまで担え支え、結果として
〔*言葉にならなかった部分の〕隠蔽と〔*言葉となった部分の〕露呈とを配定するという生起」(ドイツ語で
表すならば「Austragアウストラーク」)の全体が、ヘラクレイトスの見る「ロゴス」なのである。
人間を開けへと差し向け 、それにより、開けた、「もの」を〔*言葉で示して〕露呈することにおいて、開けを閉じること
が、ロゴス の動向なのである。

 ☆ これは 《ことば ないしそれによる表現》が帯びる一般的な性質だと 現代でも捉えられているように思われる。

 すなわち 《言葉による表現》は 特に定義において その表わされたモノ・コトを《規定している》。
 《規定した》ということは それを《限定した》ことになると。
 ここで《限定することによって さらに否定し去った》のは 規定したモノ・コト(つまりは 言葉というシルシで表わしたモノ・コト)の外側に背後に置き去った何らかのモノ・コトのことである。

 世界という言葉でなら 外側や背後に置き去られたモノ・コトは少ない。
 情況という表現では 時間的に空間的に幅が狭められる。その時その場以外のモノ・コトは置き去りにしている。
 場という言葉で表わしたなら どうか? 世界や情況が 空間という意味のコトに限定されたなら その時以外の時間が切り捨てられた。
 その場にいたわたしと言ったときには さらにそのわたしを取り巻く環境が 見捨てられる。

 だとしたら 言葉による表現は《規定し 限定する。それにともなって否定することになるモノ・コトが出て来る》という実際として モノ・コトの《露呈と隠蔽を配定する》ことであるとなる。


 現代のわれわれも ヘラクレイトスのロゴスを《言葉》という語としては 同じように使っている。または そういう言葉観を失っていない。のではないか。


 
 ただし ひとつの問題は こうである。:
 I love you. と言う。 我愛你(=汝)。と言う。世界をそのように われと汝とその一定の関係で切り取ったわけである。或る種の線形論理*1である*2

 しかしながら このふたつの表現形式としてそれぞれ《世界の露呈と隠蔽を配置する》ロゴスが ひょっとすると《あたらしい大国関係》をつくって行く。のだろうか。

 《隠蔽された背後の世界》のことを知っており必要に応じて意識するなら だいじょうぶだということなのか。
 《世界が言葉によって切り取られ 露呈した部分と隠蔽された部分に分かれ 後者がしばしば忘却されるのでそのことにも思いを致すべし》という世界観が あたらしい常態になるのであろうか。いやはや。


     *

p.57 註
5. この点については、論題としては、キリスト教
の教義での三位一体論における「聖霊」として
のロゴスの位置づけが関わってくる。新約聖書
ヨハネ福音書』第一章冒頭を参照。「初めに 言ことば
があった。言は神とともにあった。言は神であ
った。」の文言は、ラテン語訳である「ヴルガタ」
聖書では「In principio erat Verbum et Verbum erat
apud Deum et Deus erat Verbum.」である。ここで
の Verbum=言・言葉はギリシア語ではロゴスに
あたる。父なる神と子なる神との媒介的地位と
しての聖霊=ロゴス、という大問題についての
宗教的および哲学的議論(そして「正しさ
(iustitia)」としての真理概念)には、本稿では
立ち入らずにおく。

 ☆ というように谷崎は このヨハネ福音の冒頭のロゴスが 子なる神キリスト・イエスではなく 父と子とから発出される聖霊なる神だとして扱っている。
 父も子も聖霊も 互いにひとしく その個は 一体としての全体ともひとしい。全体は 個とそれぞれひとしい。
 のだから 大した問題でもないかも知れない。
 物語としての神学にあっては 子なる神は 人間と成ったが 聖霊なる神は そうは成らなかった。ただし 聖霊なる神も 霊として(光源なる父と発耀なる子とからの光の明るさや暖かさとして)世界に送られている。




 ▲ (齋藤元紀:翻訳不可能性と真理の複数性――解釈学の彼方の《存在の場所論》へ向けて――) 〜〜〜〜〜〜〜
https://www.hosei.ac.jp/bungaku/museum/html/kiyo/54/articles/m_saito.pdf

p.33
 詩人は神の知を完全に引き受けること
のできぬまま, 直観のうちで引き裂かれ, 翻訳
不可能性》に直面する。 詩人が 「遠くの見知らぬ
国へとさすらう」 とともに 「故郷の土地のために
故郷の神々を受け入れる」 ように 「国境線」 に留
まらざるをえないのも, そのためなのである
(GA 39, 170)。

p.34
むしろ《隠蔽性》と《翻
訳不可能性》の《過剰さ》は, ロゴスが暴力を孕
まざるをえず, またそれゆえに解釈もけっして一
元化や正統化を主張しえないことの《自覚》を要
請するものなのである。

*1:或る種の線形論理:〔真理の露開が・・・カテゴリー的な言明として果たされる・・・に応じて〕ロゴスもまた、普遍的なカテゴリーへと至る一直線的な道の探索となる。p.56

*2:或る種の線形論理である:そうではなく非線形の構造を持つのは 日本文である。われハ汝ガ好きと言ってハ格とガ格で主題を定め世界を切り取って行くのであるが 中心となるハ格主題は その上下左右の周りの世界をひと言のもとに絡め取る。こんにちハのハ格主題と同じように われハと言っていても 相手にそしてお互いに われわれは宇宙全体の中にあるのだよなとまづ確認しあっている。