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哲学いろいろ

あいまいな日本のわたし(上)

――大岡信の詩を出汁にして――


あいまいさとは 西洋人の考えでは


  その周囲をうろつくことだ
  そのものに直接あたらない
  ひいて 両義性 多義性を意味する
  ちなみに 曖も昧も 暗いことだ


  *


 大岡信が かれを含めて《第三期の詩人》たちについて 曖昧さが見られるというとき 決して 東洋の漢民族の意味するところで あいまいなのではない。
 何に明るいのか。もちろん自分たちのあいまいであることに明るいということがその中心だなどと茶化すつもりはない。(茶化してもいいのだが)。或る自分を見るとき つねにと言っていいほど もう一方に 別の自分を置いている。だからである。 この二つの自分が見えることに明るい。


 このとき 別の自分は あるいは非在でしかないかも知れない。ないだろう。けれども 性関係によって 不断にその証し子が作られ得るというように つねに その非在の自分が どこかに存在しうるという状態 そしてその限りにおいてあたかも自分の分身が存在するという状態 ここに身を置いているからである。


obscure :物が暗くて(隠れていて)よく見えない
vague  :思想・陳述・感情・感覚などが 正確(精密さ)を欠いてあいまい
enigmatic:意義が不明で 人を困惑させる
cryptic :不明瞭で 神秘的な(なぞめいた)意味を含んで 人を迷わせる
ambiguous:意味があいまいで判定しがたい
equivocal:二つの意味のどちらとも解される。人を誤解(混乱)させるためにわざとあいまいにした
antonym: clear, distinct, obvious


 《遠回し / 婉曲》ならその意味での《うそ》は その言わんとするところは 実は明らかである。


 普遍客観概念を旨とし 旨としつつも あいまいになる(または わざと あいまいに表現する傾向にある)アマテラス語の二重言語性(つまりわるく言えば 二枚舌)と そして 感情を丸出しにしつつも素朴真実を語るスサノヲ人間語と これら両者の言語二重性。


 かれらは いまだ生まれぬ赤子を我が子とするかのように――あたかもシジュフォスの石のように――育てているのだ。このような両義性が いくつも繁殖する中で(もしくは繁殖し得る位置にいて) かれらは それら全体の多義の系の中で いつも あいまいな存在として生きている。果たして生きているのだろうか。死んでいるのでは?


たとえば


   ああいま樹々のあいだで
   裸になって
   わたしはあなたをおもう
   地上のどこにもいないひと
   雹を運ぶ蒼白な実りの焔
   わたしの臓器に放電する
   あなたの非在


 これは 《曖昧さ》の文字通りの例となって あまり適例であるとは言えないかも知れないが そのあとすぐ続いて


   あなたはわたしの精神の敵だ
   だが敵の思われびとかもしれないのだ
   (以上 大岡信:《樹々のあいだで――清岡卓行に――》1956−59)


と あたかも《育児》の歴史を語っているのが聞かれる。(あいまいさを育てて それなりに たとえそのまま曖昧であったとしても もう分かる曖昧になっているよう育てるという意味あいである)。しかしこれは 同じ世代の同じ傾向に属すると作者・大岡が自ら言う《清岡卓行に》 明白に宛てて書かれているのだ。
 あるいは


   あてどもない夢の過剰が〔ひとつの愛から夢をうばった。〕
   (大岡信:《青春》1949 カッコを付したのは引用者)


 これが大岡の著作集(第一期ともいうべき全十五巻)の第一巻*1の最初に掲げられた詩 その冒頭の一文である。こうして そもそも太初に あいまいな多義性が――つまり ここでは《夢の過剰》が――あったと見なければなるまい。
(つづく)