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哲学いろいろ

アマアガリ・シンドロームとアマテラス予備軍症候群

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 と名づけた現代日本人の傾向をさぐります。

 アマアガリと言えば アマクダリの反対です。アマテラス公民の二階からスサノヲ市民の一階に下るのに対して 一階から二階へ上がることを言います。
 出世とは もとはブディズムの用語で 出世間( lokottara )と言い けっきょくさとりのことを言ったそうですが ここでは アマアガリしてエライさんになることとして使います。


 明治維新の頃ならまだしも いま何故この出世に熱を帯びて身と心を燃やすのか? 
 この問いが ひとつです。
 つまり アマアガリ・シンドロームに罹ってはいませんか? です。


 このアマテラス公民圏にまで出世しないとしても・つまりはスサノヲ民間の場にあってしかも アマアガリしたアマテラス公民なる人びとのためにはたらくという場合 これは アマテラス予備軍症候群と名づけます。

 もっともこの場合 アマテラスお二階さんのためにはたらくというのと いやいやそれは社会や国のためであるという場合と ふたつに分かれましょう。後者の場合は 自分のためでもあり社会のためでもあると 堂々と答えるものと思われます。
 
 となれば どこが違うのでしょう?

 * 上で お二階さんのためにはたらくというのは 政治家や官僚あるいは専門の研究をおこなう学者などなどアマテラス公民の言っていることにまづは従おうというような考えを表明するスサノヲ市民のことです。
 


 問いのまとめです:
 (1) アマアガリ・シンドロームに人はなぜ罹るのか?

 (2) アマテラス予備軍症候群と呼べるシンドロームは見られるか?

 (3) それは どういう状態か? またなぜ罹るのか?

 (4) 全体として われわれは この社会にあってどうすればよいか?


 * 出世がなぜわるい? といった反論などなど自由なご批判をも歓迎します。




 《第三項(犠牲)排除の理論》があります。
 自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。
 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。

 
 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。

 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると。

 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。

 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・


 § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。

 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。

 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。


 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。

 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。


 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。

 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。
 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。

 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現すると言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩序》を楽しむと言うのだそうです。

 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。


 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。

 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。

 また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面にはつねに起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。

 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れるであろうと。


 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。

 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。
 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それによって なお人びとは 安心するというその仕組みとして。

 したがってつまり今度は この《聖なる第三項》を みなであがめる。このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。 
 実質的には中身など何も出来ていなくても 分かりやすい聖なるかたちが偉大なものとして共通に持てたなら うわべだけとしてでも 安心するのだと。


 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られる《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいである。

 なぜならそこでは 《聖なる者》に対して否定する動き あるいははっきりと敵対する勢力が新たに現われたなら あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくからである。うすっぺらい頭で考えた結果は 出る杭を打つである。つまり その新たに現われた別の第三項を排除することにかかる。
 敵対勢力が大勢であって 単に除け者とする手段では間に合わないときには 明らかに戦争にまでも発展させる。社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。


 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?

 ひとりの偉大な《聖なる者》を頂くひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。内と外という区分がすでに 除け者をみづから作っていることになっている。
 外の異者を受け容れよというのであるが おそらくそれは――今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。
 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。


 § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。

 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 根源的なものであるかも分からない。

 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか?
 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。
 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。


 自由なご批判をあおぎます。