いかなる国語にも属さないこころのことば
▲ (いかなる国語にも属さないこころのことば)〜〜〜〜〜〜
《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。
ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。
《世になぜ善と悪があるか》と疑っている主題がどう展開するか このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。
それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。
それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。――そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。
これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。
けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(非思考の場)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。
今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。
思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。
《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。
これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。
旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。
けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。
《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。
もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。
(アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ すなわち 真理(心の窓)は 人間には表象し得ないのである。
《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も――それは いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。
だからアブラハムに いわゆる縄文人に見られると推測されるような《神憑り》はない。あり得ないということを おぎなっておきたいと思います。
そこから 息子のイサクを神にいけにえとしてささげるという要素を伴なう物語が生まれてきたものと推測します。極限にまで推理を尽くしているでしょうが 精神の普通であることにもとづいています。ひとは見よ 聖書記者の強靭な精神力を。