caguirofie

哲学いろいろ

あくま

 《悪魔》については こう捉えます。
 人にとってその場その時点での情況があまりにも辛くきびしいものであるとき その目の前の壁が切り立った崖のごとくであるように思われ それは微分したかたちで言って垂直に立ちはだかっている。ここで人が味わう非力もしくは無力感について もしその苦境が相手のあることであるなら その相手は あたかも悪魔であるように思えることがある。悪の究極が 自分の前に立ちはだかっているように思える。
 しかも微分したかたちに関するかぎり その悪魔を前にして無力感は極度に達している。永遠の敗北であるように思われる。
 この極度であることや永遠の無力を演出しているその悪魔は すでに人間ワザではなく 或る種の仕方で霊的な存在であるとすら考えられる。ならば それは天使である。しかもその天使が堕落して地に落ちて来たものであろう。――こう捉えてみたときに 悪魔の定義がそれとして分かるように思いました。
 すなわち それはあくまでその時点での微分による感覚の範囲において 垂直に立ちはだかった壁であることから来ているのではないか?

 話は変わります。イエスが湖の上を歩くという話が伝えられています。まづその姿を弟子たちが見たという箇所を抜き書きします。
 ▼ (マタイ福音14:22−33――湖の上を歩く――) 〜〜〜
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 ところが、〔弟子たちの乗った〕舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
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 ☆ 《船が逆風のために波に悩まされていた》程度であり また《幽霊が出た》といったおそれと書いてあるだけですが この話を喩えとして上の悪魔感覚に当てはめてみれば どうなるか?
 嵐がひどくその時点で微分してみれば90度に突き立った壁が立ちはだかっていると考えられる場合です。しかも それが何らかのかたちで 人為的な嵐であったとしたら どうか?
 ひとつには この壁を作りだした側の人間は 航きなずむ人たちにとって悪魔だと――微分した情況においては――感じられる。
 ひとつには その悪魔は イエスが《〔その嵐は・あるいは幽霊は・あるいはつまりそう見させるその悪魔は〕わたしだ。おそれるな》と言ったとして当てはめるとしたら どうなるか?

 悪魔あるいは堕天使 これを差配して力を振るわせあたかもわれわれを練り上げるために打つのは 神なのだと言っている。でしょうか? どうでしょうか? そういうことになるでしょうか?

 
 悪魔とは そういう物語の中の登場者であるように受けとめましたが いかがでしょうか?
 その瞬間において情況を微分したとき 行きなずむわれにとって 悪魔が――それは むしろキリストの心であるのに――立ちはだかるというふうにわれわれは思ってしまう。・・・





 勇み足かなぁ。