caguirofie

哲学いろいろ

線形文と非線形文

つまり確かに線形文は 時制の表わし方について詳しく考え詰めたようです。一歩も二歩も先を行っています。
 ただし玉にきずなのは そのようにメタ話法を或る種の仕方で(つまり 時制や仮想現実法などにおいて) 文じたいの中に表わすようにしたために その話し手の存在そのものとしてのメタ話法のあり方があいまいになったかも知れません。いえ あいまいになったのではなく 実際の言葉の表わす世界に置き代えてしまったかに思えます。
 すなわち 非線形文では 世界は主題提示から始まり主題提示に終わるとさえ言えるようなかたちでハ格が 話し手の存在やまた相手の存在を含めた世界を言葉の外においても――もともとそうであるごとく――捉えさせようとしている。ハ格などの格活用は 文の意味などから聞き手の注意をむしろわざと逸らそうとしているとさえ考えられます。いま何を言うかによりは あなたとのこの話し合いの場を大切にしていますよと言いたげです。風呂敷のたとえが出ていましたが 和文はやはりお風呂に浸かった雰囲気であり温泉気分のことばです。
 線形文は それでは シャワーでしょうか?
 線形文では このような《世界における存在》どうしであるという互いの認識をすでに言葉で表わされた文じたいの中に詰め込んでしまったかも知れません。湯船から出てしまっています。千歩も万歩も先を行って 行き過ぎた感がなきにしもあらず。
 非線形文は 線形文に或る程度なら近づくことができるでしょう。非線形というごとく・また非線形と言うからには そのような線形論理の意味連絡をしっかりと伝えようという表現のかたちをも 採り得るでしょう。言わば相転移を成し遂げます。けれども 線形文が非線形文のあり方に戻るのは 容易ではないと考えられます。どうでしょう?
 いわば線形文の表わす言葉の世界が もしそうだとすれば 大きな――ただし ワ゛−チュアルな――湯船であるかも知れません。そこにいい気分で浸かりうる文章は その表現されたことがら自体が そのまま現実であると思ってしまうかも知れません。思いたがることがよくあるのでしょう。原理主義とはそういう意味合いにもなりませんか?