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哲学いろいろ

ラプラスの悪魔

▼ (ヰキぺ:ラプラスの悪魔) 〜〜〜
 世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、
 その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、
 その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。
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 ☆ その後 量子力学による知見も書いてありますが これは《知る》ということですよね? 認識論であり それに限られているのではないのですか?
 知ったから どうなのでしょう?

 このようにラプラスの悪魔ないし神の知性による認識を仮りにでも行動の前提とするということ すなわち
 ★ 『間接話法的な枠組みを「文頭で」拵えておく遣り方』
 ☆ これは あくまで認識の問題に限られるのではないですか? しかも仮定の話です。これは・つまりこのような前提のもとに自己表現をすることは
 ★ 絵巻物語〔が〕額縁に収まっていない
 ☆ という場合の前提のあり方におけるそれと 表現という行為としては 何ら変わりないと見ます。つまり前提の中身は 一方がいわば《全知》で 他方が《脳天気》であるのですが それがいづれも自己表現のための前提であるという点では 何ら変わりがありません。全知にしても無知にしても 仮りの前提であるに過ぎないと考えます。
 要は 自己表現の中身が勝負です。
 人間が全知であるのでもないでしょうし 枠組みが取っ払われているからと言って その言語の構文という或る意味で制約からまぬかれているわけでもない。こう考えます。