《アフリカ的段階》
◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) 〜〜〜〜
http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html
マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。
(α) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。
(β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。
(γ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。
(δ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。
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☆ そもそもの――吉本による――定義からおしえてもらわねばならないのですが 次のように問いたいと思います。
(1) 我が国の《公地公民制≒天皇家による家産国家制》と どう同じでどう違うか?
cf. 【Q:《公地公民制》とは 民主制への道程か?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5967888.html
(2) すなわちもし 公地公民制が遠く民主制への道程であったとしたら 案外その《公:おほやけ》という考え方においては
(δ): 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。
と同じ内容を志向しているようにも思われるが どうか?
(3) すなわち アフリカ的段階では 明らかに歴史を先取りしてすでに暴君のごとき民衆を想定しているように見える。
(β) しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。
と。だとすれば 日本の古代国家は アフリカ型にくらべれば 《対話型》である。
対話型をえらんだ結果 われわれ市民は なめられてしまったか。何もかもを巻き上げられっぱなしであった。
ちなみに 中国ではむしろかなりアフリカ型の《暴君型》に近い。
■ (孟子:尽心章句) 〜〜〜〜〜〜〜〜
人民がもっとも重要で 土地の神と穀物の神である社稷はこれに次ぎ 君主はもっとも軽い。
だから衆民の人望を得ると天子になり 天子のお気に入ると諸侯になり 諸侯のお気に入ると太夫になる。
諸侯が社稷つまり国家を危機に陥れると 退位させられる。肥え太った獣を犠牲とし 清浄なお供えをささげ決まった時期に祭祀しているのに 干害・水害がおこったならば 社稷の神自体を新しい神に変える。
(尽心章句 下 貝塚茂樹訳)
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☆ 吉本隆明は わたしは途中から嫌になって読まなくなっていますので 横着なかたちではありますが おしえて欲しいです。