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哲学いろいろ

もののあはれ

宣長は江戸時代のひとです。身分制はなやかなりし情況の中で生きています。その前には 身分制をつくるという人間の中のひとつの――わたしには ゆがんだものと思われますが 大きく自由としての――心の動きがありました。

 もののあはれは この身分制をも突き抜けていこうという志があると思うのですが いかんせん 日本人のそれまでの《自由》の概念は よほど社会の〔二階建て構造といった〕あり方に影響を受けていたとも考えます。
 その意味は いわば身分制とて或る種の《さかしら》なのですからこれを突き抜けるというときには 多少ともその時の現在の倫理観に抵抗しこれを批判しその結果棄てるべきものは棄て互いに一段高いところに上がるというかたちを取らざるを得ません。つまり 人間関係を理知的に考えその考えを立ち居振る舞いにも及ぼそうという儒教の思想に対抗するかたちを取らざるを得ませんでした。
 だから もののあはれは それをそのまま社会観として全面的に掲げようとするのであれば――という方向に どうしても儒教との対抗の上で行きがちになると考えられるのですが―― およそおかしな社会思想にもなるはずです。ひとの気持ちが込められているのであれば 何をしても・つまり清きこころに発すると見なされるなら人殺しをしても ひとまづそれを受け容れるということになるはずです。

 宣長のそれに対する防波堤は 《世の中が みな もののあはれを知る人びとから成っているのなら 行きすぎたことや間違ったことをするものではない》といった論理を示すことでした。時代の制約かと考えます。

 それでも宣長のいいところは 人間のことにかんして《うそ(虚構)》ということを知っていたことです。《実情を偽る》ことを採り入れていることです。以下引用です。
 ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) 〜〜〜〜〜
 宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。
 歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。
 前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。右(上)の歌論は この認識に対応するものである。つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。意識下にまで儒仏の影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。
 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)
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