caguirofie

哲学いろいろ

あくま論

いまは 悪魔が悪鬼たちの仲間であり単なる兄貴分であるか それとも次元を異にするほどの境地にあり親分にあたるか これをひとつの焦点としていると思います。
 もうひとつには もし親分格であるとしたら それは ただの思想や観念であるだけではなく 生身の人間がそうなり得るのか これをも問うています。

 わたしの問い求め方は 人間が悪鬼たちとは別格の悪魔になったとしたら それは どういう性格であると考えるか? 社会の中にどう位置づければよいか? どのように扱えばよいか? というかたちで進めています。
 その過程で 互いの異同をきちんと捉えつつ 一つひとつ明らかにして行ければよい こう思っていることになります。
 今回は 違いを取り上げ考えをおよぼして行きたいと考えます。

 ★ 悪魔を見捨てるわけではありません。・・・ / 必要であれば、あなたのキャパを(最低限の礼儀だと)考慮しつつ再接近してくることでしょう
 ☆ これは 認識が大幅に違うところです。悪魔はねらった獲物を途中で見捨てるとか一休みして最接近して来るとか そういうふうに出来ているとは思えません。悪魔にとっては 相手をたましいの死にまでみちびくか それとも 自分の破滅か 二つに一つだと思いますよ。
 言わば人間をそのたましいにおいて死に追いやるという仕事をパンとして生きている(死んでいる)のだと考えます。それ以外にすることはないという存在です。

 ですから そのときにも 過去を振り返るということもないでしょうし 失敗という語もその辞書にないのだと考えられます。
 最後のひと突きは 最初で最後の絶対的なひと突きとしての《悪魔の誕生であり死であり仕事のエンジンがかかることである》のだと思います。高炉に火が入ったら もう燃え続けるほかに道はないことになります。

 環境要因はすべて 最初で最後のひと突きのために総動員されると捉えればよいのではないですか?
 なぜ その最後のひと突きを しかも自分から 求めるのか? 自分で悪魔になるというが いったい何のために 何を好き好んでそうするのか? 何の得があるのか?

 簡単なきっかけは 《うたがう》ということだと思います。愛とか永遠とか善とか真実とか《よきこと》を そんなものは果敢無いものだという《さとり》にもとづき徹底的にうたがう。つまり否定する。否定しきる。
 立ち上がるもの・燃え上がるもの これらをすべて横に寝かしつけ消してしまいたい。均し棒で均したい。モグラたたきを超えて モグラを死なしめたい。
 たぶん無常をさとったからだと思います。カッコウをつけたことすべてを黙らせたい。のでしょうね。

 この全否定の《仕事》に或る日或る時何の予告もなく突然就くという場合と そしてそうではなく初めは むしろさとりの偉人になるという志をもって徹底的に人間的な人間になろうとした。その失敗――いや実態としてはむしろ成功した 成功したけれども むしろ周りの人びとがそれもただのドングリの背比べなんだから いかに人間的な人間だと言っても 大したことはないよと言って いわば欺かれてしまった―― その失敗を跳ね返すために 或る日或る時 そうだおれは悪魔になるんだと別様にさとったという最後のひと突きを経て その全否定の仕事を専門とする悪魔商会に就職したという場合とがあると思われる。

 ★ 悪魔が存在するとしても、では、その出現の過程を知ろうとしないまま殲滅しさえすれば事足りると(おっしゃっているようにしか聞こえないのですが。というのは、この点に関して述べた私見に対する反論をまだいただいていないからですが)いうのは、どうなんでしょうか、本質的解決につながるのでしょうか。
 ☆ これは 対策の問題ですね。わたしに分かっていることは:
 1. 悪魔に人間が素手で立ち向かっても勝ち目はない。なぜなら 相手は空気のような存在なのだから。

 2. 《出現の過程》は 今回もつづいて考えて来たように むろん知ろうとしている。さらにつづける。

 3. ですから ただし《殲滅》しようとは考えない。勝利とするところとは 悪魔がそこにいたとしても もはや何の影響もおよぼされることのない関係をたもつことだと思います。(それによって自然消滅するかも知れません。かまってもらえないことが 案外死因になるかも知れないから)。

 4. 《本質的解決》は さらに時代を経るにしたがって 社会情況が変わって来て そのときそのような解決方法が見出されることになるかも知れません。いまわたしには分かりません。