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哲学いろいろ

白蓮

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《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために
余は巧妙な手段を語る。

そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく
この世に教えを弘めるのだ。

その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし
そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。

人々は理性が転倒して愚かであり
余がそこに立っているにもかかわらず
余を見ることはない。

(《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 
 〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳)
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 かつて こう言った人がいた。


ブッダのおしえの時代は すでに去った。
言いかえると このおしえ もしくは その霊妙な力を
すでにわたしたちは 受け取っている。


先に挙げたテオドリックの時代も
すでに保持して棄てている。
《理性が転倒して愚かであ》ることから
われわれは すでに本質的に免れ得た。
さとりの境地が その加護を
ブッディスムという形態の媒介を経ることなく
すでに受けていると言おう。


《霊妙な力によってみづからの姿を現わす余》は
人びとの 《わたし》なのだ。
こう宣言したことになっている。
《余がそこに立っているにもかかわらず 余を
見ることはない》と 時に 宣言するのは
人びとの側なのである。


《巧妙な手段》 媒介たるブッディスムを
――アマテラス学問行為として――
もっぱら説く側の人びとは
この転倒の転倒を 心して
受け容れなければならない。
一般に 社会形態としても
《A(アマテラス公民)‐S(市民スサノヲ)》連関制が
S(市民社会)圏の主導による《S‐A》連関態勢に
移行するであろう。人間が
変わる。