caguirofie

哲学いろいろ

信仰と律法

わたしたちが――いろいろ考えて最終的に――判断をくだすときに もし心に逆らうような内容であれば やましさを感じるわけです。あるいは胸騒ぎもするでしょうし 顔をあからめたりもします。さらにまたこれらにあらがおうともします。 
 あきらかに良心は 《感情において》現われるものです。

 そのように気持ちにおいて現われたおのれの良心をたしかに理性は(もしくは精神の記憶能力は) 覚えていてそこに秩序を見出します。おのれの良心体験を整理して みづから秩序立てたりしつつ いわば自然本性としての秩序を見出します。(心が 外からみづからに取り込んだ余分なものを棄てたとも言えるかも知れません)。
 この記憶の倉庫に整理された秩序は 知解能力をとおして 言葉にして表現されます。たとえば《おのれの持てる力を無理に超えて何かをむさぼるということは その秩序においてわたしはしない》であるとか。あるいは 《その秩序においてわたしは みづからを そして他人を 傷つけたり殺したりはしない》。
 これが精神および身体の――自然本性にのっとった――秩序であり わがこころである。


 すでに《理性的良心》が出来上がっていますが これを守るのは 倫理としてのふるまいになるのでしょう。またこれらを《ころすなかれ》や《むさぼるなかれ》というふうに戒めとして説くようになるのは 道徳です。(宗教もそうであるかも知れません)。