本格小説と自由意志について
(α) ルーテル( Martin Luther )に《奴隷意志》の議論があるようです。
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ルターは《人間の意志 voluntas hominis 》が《奴隷的で囚われたもの serva et captiva 》であると主張するが それは人は外からの《強制 coactio 》によって 嫌々ながら何かを意志するという意味ではない。意志が意志であるためには そこに自発性がなんらかなければならない。奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。
(清水哲郎:ルター in 伊藤博明編『哲学の歴史 第四巻 ルネサンス』2007)
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(β) これゆえ 文学において《本格小説》と称する行き方は あたかもみづからの意志をいわば中立として 作者でありつつも観察者の立ち場に徹して物語を編んでいく――と言うのでしょうか?
これが問いです。
(γ) わたしの考えは
▲ 奴隷的であると言うのは 人間の意志が悪へと向かい 善に向かうことのない状態にある という意味においてである。
☆ というまでに突き詰めては考えていません。仮りに《悪へと向か》うかどうかは別としうるならば別として単純に言って人間の意志がそのままでは《善に向かうことのない状態にある》としますと それでも その認識に伴なうへりくだりをとおしてゆくゆくはかえって自由意志が建てられて行く――こう見とおしています。
ですから結論づけるなら
(δ) 中立の観察者の立ち場に立てなくてもよい。そうではなく 《作者》はあってよい。主観が顔を出してよい。この主観のうちに建てられて行く自由意志に沿って 物語を編む ないし 自己表現を推し進めて行く これでよい。たとえ挟雑物が交じって来ても 基本の歩みを歩み( basis )としてあたかも悪とともに進んでよい。
☆ こう考えます。《あたかも悪(または 毒麦)とともに》というのは 社会にあって自分を含めた人びととともにという意味です。
(ε) ちなみに ルーテルはたとえばこう考えたようです。
▲ われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ それが注ぎ込まれたうえで行為が生じる。(『ハイデルベルク討論』=前掲・清水)
☆ 前半すなわち《われわれの行為なしに恩恵と信が注ぎ込まれ》というところが 《私心をあたかも蒸発させ観察者であることをつらぬく》につながると思われます。わたくしは 後半の部分つまり《恩恵と信が注ぎ込まれたうえで行為が生じる》のほうに重きを置きたい――こう思います。かえって自由意志が建てられるという希望です。
これは 一文の全体として つながった過程であることに間違いはないでしょう。
やや不案内のところがあると思いますが 自由なご見解をおしえてください。
そこでわたしは けっきょくのところ そこまで《中立の観察者》の立ち場に言わば純化して行かなくてもよいのではないか。こう問いかけています。主観を直接に出してあたかも《毒麦》を交えていても いいのではないか。(γ)(δ)の趣旨は そういうものです。
(ε)では どちらかと言うと ゆくゆくは 《自由意志がかえって建てられて来て》 主観の表明を交える形式が 中立の観察者の文体を凌ぐようになるのではないか。こう問うています。
はなはだ抽象的な議論のようだと思いますが ルーテルの(ε)の一文において 前半の部分よりも後半のほうが 重要なのではないか。という問いかけになります。どうでしょう?