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哲学いろいろ

augustinus:神を見ること

 それゆえ 神は本性的に不可視であり 父だけでなく 三位一体それ自体 一なる神である。そして不可視であるだけでなく 不可変である。神は望んだ人に 望んだ姿で現われるが 神の許にはその完全な不可視で 不可変な本性はとどまる。
 思うに 真に敬虔な人々の望み――それによって彼らは神を見ることを欲し 渇望しながら 熱烈に求めるが――は 神ご自身ではないが まさしく神が望み 現われるその姿をではなく 神ご自身であるところの本質を見ようとして燃えるのである。神の忠実な僕である聖なるモーセは この望みの炎を示し 友が面と向かって語るように神に語り 次のように言う。

 もしあなたがわたしにご好意を示してくださるのでしたら わたしにあなた自身をお示しください。
 (出エジプト記33:11−13)

 それゆえどういうことになるのか。それは神ご自身ではなかったのか。もしそれが神ご自身でなかったら 神に《わたしにあなた自身をお示しください》とではなく 《わたしに神をお示しください》と言ったであろう。しかしながら もし彼が神の本性と本質を見ているとしたら 《わたしにあなた自身をお示しください》とは言わなかったであろう。それゆえ 神は現われようと望んだその姿で現われ モーセが見ることを欲していた本性そのものとしては現われなかったのである。
 それはたしかに別の生において聖なる人々に約束されていることである。したがって モーセに対する答え 《人はわたしを見て なお生きていることはできない》(出エジプト記33:20) すなわち この世に生きる人は 神をあるがままに見ることはできない ということは真である。というのは 多くの人々が見たが それは神の意志が選んだものであり 本性から形づくられたものではないからである。そしてもし正しく理解されるならば それはヨハネが述べたこと すなわち 

 愛する者たち わたしたちは 今既に神の子ですが 自分がどのようになるかは まだ示されていません。しかし 御子が現われるとき 御子に似た者となるということを知っています。なぜなら そのとき御子をありのままに見るからです。
 (ヨハネの第一の手紙3:2)

ということにほかならない。
 アウグスティヌス:神を見ること あるいは手紙147 8・20 茂泉昭男訳)