caguirofie

哲学いろいろ

#33

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の一c 《純粋概念による考察》ということの性格について

つまり それを欲するために義人を愛するのである。だから まだ 義人ではない人も義人を愛するのである。さて 義人とは何か ということを知らない人は義人を愛し得ない。それゆえ まだ義人ではない人も 義人とは何か ということを知っているのだ。
・・・ところが 私たちがまだ義人でないときも 義人とは何かということをどこで知るのであろうか。もし私たちが自分の外で知るなら 或る物体において知るのである。しかし私たちが語っているものは物体的なものではない。

  • 物体的なものを排斥しようというものでもない。

したがって 私たちは自分において義人とは何か ということを知っているのである。私がこのことを言い表わそうと問い求めるとき 私は自分自身のもとでのみそれを見出すからである。そして私が義人とは何か ということを或る人に問うなら その人は自分自身のもとで何と答えるべきか問い求める。この意味で 真実を答え得る人は自分自身のもとで何と答えるべきかを見出すのである。


 ・・・《義なる心とは 自分の生活と行状における知識と理性によって各人にその持前を配分するものである》と私が語り そのことを知りつつ語るとき カルタゴのように今眼前にない或るものを思惟するのではなく またアレクサンドリアのように或る想像物を実物に一致しようがしまいが やっとのことで作り上げるのでもなく 私は或る現在するものを認め 多くの人は私が認めるものを聞くとき同意するであろう。そして私からそのことを聞き 納得して同意をなす人はだれでも 彼自身はたとい自分が認める当のもの(義人)でなくても 自分自身のもとで私と同じことを認める。だが 義人について語るなら 彼は 自分自身そうであるものを認め かつ語るのである。彼自身も 自分自身のもとでなければ それをどこで認めるであろうか。自分自身のもとでなければ どこで自分を認めるであろうか ということは不思議ではない。しかし 心が他のところでは決して見ないものを自分自sんのもとで見ること そして真なるものとして見ること また 真実の義なる心そのものを見ること さらに自分自身心であるが 自分自身のところで見る義なる心ではないこと は不思議なことである。まだ義ではない心の中に偶然に他の義なる心があるのであろうか。・・・


 それではなぜ 私たちが義人であると信じる他の人を愛して しかも私たちも義なる人になり得るため 義なる心とは何かということをそこで見る形相そのものを愛さないであろうか。私たちがこの形相を愛さなかったなら 私たちがこの形相に基づいて愛する人を決して愛さないのであろうか。しかし私たちが義人ではない限り この形相への愛は私たちが義人となり得るためには余りにも弱いのであろうか。
 だから 義人であると信じられる人間は 愛する人が自分のもとで認め知解するこの形相と真理に基づいて愛されるのである。

  • だから 形相と真理を愛す ないし形相と真理が愛す のではなく その人を――自己自身のもとで同じ義なる心のかたちを認めるがゆえに――愛するのである。人が人を愛するのである。天使が人を または人が天使(つまりたとえば純粋思想。あるいは《国家》という概念にもなりうる)を 愛するのではない。実践活動が人を または人が実践活動を 愛するのではない。実践活動家を愛することはありうる。しかし 実践活動家の実践を愛するのではなく かれの義なる心を――それを自分自身のもとで知って認めるがゆえに―― 愛するのである。

 ところが 形相と真理(* ないし 天使)はそれ自身以外からは愛されない。なぜなら 私たちは形相と真理以外の処では そのような或るものを見出さず したがってそれが知られていないときは すでに私たちがそのような或るものを知っているものに基づいて信じつつ愛するであろうから。君がそのようなものとして見るであろうものはみなすでに形相と真理である。他にそのようなものは存在しない。それのみがあるがままのそれ自身であるからである。
 だから 人間を愛する人は彼らが義人であるゆえにか あるいは義人であり得るためにか 愛すべきである。

  • 繰り返そう。かれらの義なる心を愛するのであって 義なる心とは かれらの身体の運動(しぐさ・心づかい)であって 《義》といった形相ないし真理を愛するのではない。その観念を愛するのではない。この形相と真理は それにもとづいて当の人を愛するそのような或るもの(神の み使い)である。

 かくて 彼は義人であるゆえか 義人であり得るために 自分自身を愛さなければならない。それで 彼はいかなる危険もなしに 自分自身のように隣人を愛するのである。これと異なる仕方で自分を愛する人は不正に自分を愛するのである。

  • 《不正に》と言わなくとも 純粋思想か反純粋思想かの じつはいづれも《形相と真理》を愛して 神でないものを神であるとするがごとく 自己でないものを自己自身であるとして 幻想の時間の中にいて 《自分を愛するのである》。《形相と真理》は 天使と呼ぶにふさわしいように 神の 御言に近くある。しかし われわれは 神を愛すべく 天使ではなく 人つまりキリストを愛するのである。

 彼は不義なる者(* もちろん 不自由者=奴隷のことである)になるように したがって悪しき者になるように 自分を愛し それゆえ 真実に自分を愛さないからである。

  • 悪とは 善の欠如である。善とは 実践の形式である。実践において互いに応答しうるそのかたちである。(答責性とも言う)。この形式の欠如とは 孤立という意味である。人間として話が出来ないという意味である。それでも 話はしているという現実がある。それは 幻想共同の中の きわめてあいまいな時間のことである。つまり 《悪しき者》とは 時間を持たぬ者のことである。
  • 《悪しき者になるように》とは つまり 赤子でないかぎり 一たんは時間的存在=人間スサノヲになったにもかかわらず 幻想的に ここから去ってゆくことを言う。
  • 《真実に自分を愛さない》というとき 自由人スサノヲである自分を愛さず しかも自由を要求する人は 自分の魂を憎むのである。《自分の魂を憎む》者とは 心をとおして見ない者であり 心を見ない者とは 身体の運動を認めない者である。そういう《観念の帝国》に住むことになった者である。知識と情報だけが 詰まっている。身体の運動をたしかに自分では行なっているにかかわらず これを認めない者とは 反生命なる者つまり死者である。人間の死者とは 悪魔(つまり 死の制作者が 悪魔である)に仕える悪鬼たちである。
  • 純粋思想者(いま ここで 国家主義者)と反純粋思想者(階級闘争家)は このあいまいな時間にいる幻想のスサノヲ者をともに見ている。純粋思想そのもの もしくは 反純粋思想そのもの(すなわち 《実践》)が 義なる心であると思うように これらが欠如する悪鬼たちにも似た幻想スサノヲ者には 義なる心を見ない。したがって かれらがもっとも求める自由は それを保証する愛が 義なる心の――他者にもそして自分自身にも――認められないことによって 成立しないゆえ 分水嶺への到達が かれらに同じく猶予されている。だから 大前提であるあの命題が 目的しかも将来の(つまり 時間の未所有のという意味である)目的となって あいまいでなくとも矛盾循環のうちにかれらの言う実践がおこなわれる。実践もしくは形相を愛するがゆえに スサノヲ者その人・しかも自分自身を 愛し得ないのである。
  • この《純粋思想家および反純粋思想家》と 《その他あいまいな時間の中にいる〔非〕スサノヲ者》とは 社会形態的な連関を作って つまり有限で偶有的かつ此岸的なカエサルの共同体をかたち作って 《アマテラス‐スサノヲ》連関制を成す。この《A‐S》連関制とは 純粋思想派から見れば A圏主導の国家体制であり 反純粋思想派から見れば――半ばかれらも 主導A圏に入り得たのちなお―― 《旧スサノヲ・キャピタリスト(つまり 現行アマテラス・キャピタリスト)‐新スサノヲ・キャピタリスト》連関という社会階級支配体制であると言う。これらが 形相として一つの真理(つまり ほんとうの真理に似たものという意味だが)を表わすとは言うものの そもそも真実に自分を愛さないからには これらすべて共同幻想である。言いかえれば たしかに或る種の形相を見ているかれらも その捉えて表現する形相が 一般S圏つまりその中のあいまいな時間の内にいるスサノヲ者を相手に その《魂を憎んだ》悪しき連関を結び これを浮かび上がらせているために かれら死者たちつまりすでに死んだスサノヲ者たちの幻想を 自分の形相の中に取り込むのである。かれらは 自分の魂を憎む人を あるいは 義なる心から遠ざかる人を 隣人として自分自身のように愛する。社会の支配統治関係を保つためには それを強いられる。ゆえに 幻想を自分自身の内にも 取り込まざるを得なくなっている。


 (アウグスティヌス:三位一体論 8・6)

以上が 《スサノヲの一編の愛のかたち》もしくは インタスサノヲイスムのかたちを 形相によって述べたものである。第一の補注は 以上のようである。
(つづく→2008-05-25 - caguirofie080525)