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もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
第二章 《生産》としての実存行為
3 《神》の系譜のもとでの実存行為
前の第三節に取り上げようとした立ち場も この系譜に入るのだけれど それは 先に別個に取り上げて 一つの消極的な前提とした。
さて 《世界》の概念としての法・非法・不法のいわば三位一体をもとにして この章では 実存行為を中心にして まづ《神》のいる情況におけるその系譜を描いておこう。
まづその前に ( a )前章の《政治行為》と( b )ここでの実存としての経営・政治行為 および( c )実存としての実存=〔概念としての〕政治領域 これら三つのそれぞれ異同を明らかにしておく必要がある。要約して次のようであろう。
まづ ( a )第一章の《〈生産〉としての政治行為》は その視点が 《神》または《無神》とそして人との関係というように 言わば《世界》と人との和解という点にしぼられている。従って その具体的で現実的な行為は 《神》が為すわけでないから ( b )個人による《実存としての政治行為〔=一般に経営・政治あるいは和解の実践としての愛〕》という事柄である。それらに対して ( c )《実存としての実存=概念としての政治》とは ( a )の・視点としての《生産としての政治行為》にしろ ( b )の・現実の行動としての《実存としての政治行為》にしろ これら両者をそれぞれ支えるべき地点である。すでに述べたように 《社稷》であるとか 《社会的諸関係の総和》であるとかであり 一般に《類としての生産行為》の核とも言うべき概念地点である。
そこでこの章では 第一章の《政治行為》の視点が 現実に具体的に展開される《実存としての愛もしくは経営・政治行為》の様式を見ようと思う。それは言いかえれば ごく一般の生活者の立ち場であり もしくは 社会思想ないし文学の立ち場に立つことになる。
おそらく この問題については 第一章の視点についてよりさらに詳しく その原語による表現に参照しなければ もはや その観察にしても その疎遠さを避け難いと思われる領域に入る。しかし――あるいは したがって―― 生活者の感動であるとか 憎悪であるとかといった 類としての共感・反共感の次元で この実存行為をながめれば ある程度の成果は期待できるかも知れない。おそらくそれは カインに対する反感もしくは共感 あるいはノアに対する共感もしくは反感などといったようにして そしてそれらが特に性関係――つまり 《非法》の世界――をとおして現われるというかたちで いわゆる愛において もっともよく表現され しかも言語の違いを超えて共有されるものとは思われる。したがってその意味で 文学を主とし 社会思想を従として 《神》のもとの実存行為の像をつかむはづである。ただちにその議論に入ろう。
たとえば 次の物語を見てみよう。
私はカルタゴにきた。するとまわりのいたるところに 醜い情事のサルタゴ(大鍋)がぶつぶつと音をたててにえていました。私はまだ恋をしていませんでしたが 恋を恋していました。・・・私は恋を恋しながら 何を恋したらよいかをさがしまわり 安穏で罠のない道を嫌っていました。・・・
このように 魂の健康状態はおもわしくなく おできが表面にふきだしてきました。みじめなことに 感覚的なものにふれてそれを掻きたくてたまらなくなりました。だが もしその感覚的なものが魂をもっていなかったならば けっして恋する気にはなれなかったでしょう。
(アウグスティヌス:『告白』()山田晶訳 第三巻第一章)
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この一節の中の《魂の健康状態は思わしくなく おできが表面にふきだしてきました》の一文は もちろん 《ヨブ記》の次の一節と合わせて読むべきである。
サタンは主の前から出て行って ヨブを撃ち その足の裏から頭の頂まで いやな腫物をもってかれを悩ました。ヨブは陶器の破片を取り それで自分の身をかき 灰の中にすわった。時にその妻はかれに言った。
――あなたはなおも堅く保って 自分を全うするのですか。神をのろって死になさ
い。
しかしヨブはかのじょに言った。
――あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。・・・
(第二章第七節以下)
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まづ第一に 断定的に述べれば あわせてこれらの物語には 実存行為として 法・非法・不法の三位一体が流れていると言うべきであろう。――敢えて そこから これらの三契機をそれぞれ抽出するとすれば まづ 非法の分野(感覚の世界として)は 取り上げるまでもないでろう。問題は ここにおける 法と不法の両契機 およびその対立である。おそらくその対立の姿を見出すなら 両契機をもそれぞれ見出しうるであろう。
アウグスティヌスの引用文の中では おそらく 法と不法との対立は 最後の一文に宿っているだろう。《ヨブ記》においてはむしろ鮮やかに――ただし 一個体のうちにおいてではないが―― ヨブとその妻との対立として それは見出しうるようである。
たとえば《あなたは 〔災いを受けて〕なおも堅く保って 自分を全うするのですか。神をもろって死になさい》というヨブの妻の立ち場は ひとつの《法》の立ち場である。それに対抗して 《災いをも受けるべき》であるとするヨブが ひつとの《不法》の側に立っている。――ただし この時 ヨブが 《法》の契機を欠いているというのは あたらない。何故なら そうは言っても
その後 ヨブは口を開いて 自分の生まれた日をのろった。すなわちヨブは言った。
わたしの生まれた日は滅びうせよ。
《男の子が 胎に宿った》と言った夜も
そのようになれ。
・・・
なにゆえ わたしは胎から出て 死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。
なにゆえ・・・(ヨブ記)
と実存の《法》に従って 《神をのろう》からである。――《愛》において 様式としてではあるが おそらく 法・非法・不法の〔相互に敵対的な契機を含む〕三位一体の構造は これらのようである。また これら以外にはないであろうと思われる。
そこで次に 一般に 質料主義に立って説かれる 愛の実存(その様式) いや 愛の実存が導かれる前提としての所有の様式 いやその所有様式への批判 これは たとえば 次のような文章から汲み取ることができよう。
亜麻布と上衣の例(* ――《二〇エレの亜麻布は一枚の上衣に値する》という――)でいえば 亜麻布は自分勝手に自分の心(* 愛もしくは恋)を上衣のなかに見つけだして 上衣を自分に関係させてしまうのである。このために上衣は身も心も亜麻布のものとされてしまう。ただし御注意ねがいたい。まだプラトニックなのである。この触れなば落ちなん微妙な関係を フランス語版『資本論』はまさに確認している。
靡こうとはしない上衣の気持ちをもかまわずに 亜麻布は 価値のあだし心を上衣のなかにおぼえる。これがことのプラトニックな現局面なのだ。
・・・
最後まで見忘れてはならないこと それは まだ《プラトニック platonique 》であるが この関係こそ 商品所持者の現実的なる関係行為を促迫する客観的な基礎だと ということである。
(平田清明:『』pp.333−334)
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この立ち場に対しては ここで この《プラトニックな関係》という《商品所持者の現実的なる関係行為を促迫する客観的な基礎》が まさに 《非法》の世界や 《不法》の契機に対して 《法》の(もしくは この立ち場に立っては 《旧法》であるかも知れないその)契機であると述べるにとどめたい。今は あとの時代にゆづる。
さらに この系譜の 実存としての愛の行為の様式は たとえば 漱石の捉えた《幻影の盾》
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一心不乱と云う事を 目に見えぬ怪力をかり 縹緲たる背景の前に写し出そうと考えて この趣向を得た。これを日本の物語に書き下さなかったのは この趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず 従って叙事妥当を欠き 描景真相を失する所が多かろう。読者の誨(おしえ)を待つ。
(『幻影(まぼろし)の盾』 序)
ちょうどこの漱石の指摘(つまり 彼我の文化の相違にかんする指摘)をつなぎとして 次節では 《神》のいない情況における愛の実存を考えてみたい。ここで 恐れることは この節では 単なる紹介者の立ち場に立ち 愛の実存について ただその概括的な様式を それも明示的でない部分が少なくないかたちで 述べたにすぎないというところである。ただ 愛については 論じるとしても せいぜいその様式についてしか――もしくは 一つの文学作品という芸術としての完結の中にしか――説いたり示したりすることは出来ないと思われる点では それでよいと考えてのことではある。・・・
(つづく→2008-05-01 - caguirofie080501)