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哲学いろいろ

#4

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§2 現代の思想にかんする思想としてa

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2007-12-20 - caguirofie071220よりのつづきです)

天地初発之時 於高天原 成神名 天之御中主之神。
次 高御産巣日神
次 神産巣日神
此三柱神者 並 独神 成坐而 隠身也。
古事記 上巻)

と『古事記』がその本文を始めるとき 《天地初発之時》というのであるから そこでは 時間の生まれたこと・過ぎ行くことを 見ている。《天地初発》が このわれわれの時間――歴史――の初めであったのかどうか これをいまは詮索しないとしても そこでは明らかに 《時間に始まりがあった》ことを 前提にして 言っている。このような古事記なる書物 これも したがって 現代の思想である。時のほかに 《高天原》という場所 あるいは《神》というものを とらえて語っていることは そういった内容が一つの生活態度を構成すると思われるから 思想であると考えられ この当時――西暦七百年前後のころ――から 人類ないし日本人は 別の種に変わったということを まだ聞かないから その意味で 現代のものである。
ここでは 古事記の講釈をする場所ではないが 現代の思想というとき 思想とは何をいうか 現代とは何かを おさえておくために 上の引用文について考えてみる。
けれども 千三百年近い昔のことを われわれは 現代とは言わない。仮りに いまの同時代人が持つそれぞれの生涯の時間的な幅を称して 現代というとすれば 古事記の昔は 元だではない。いまわたしたちが この古事記の当時の現代をどうとらえるかというとき その時点は われわれの現代である。《現代の》というとき たとえばこのような過去の時代との切り結び そのときどきの現代であった時間の積み重ねを その内容に持っている。
思想の内容についても 同じであろうと思われ たとえば今では 《天地初発之時》にかんして 特には自然科学の知識としての現代思想を もっている。たとえば《ビッグバン》という。そうして 古代人の現代思想はもう古いということも出来るし あるいはわれわれは自然科学や社会科学の知識から 或る種の仕方で自由である部分も 持っているので 当時との断絶だけではなく つながりのほうをも われわれの現代思想として 考えに容れるということも おこなう。タカアマノハラとは 一体どこなのか。アメノミナカヌシのカミとは何などと 研究し 歴史的な現代を捉えようとするわけである。古代をとらえることによって いまの現代をも 明らかにしようとする。
タカミムスヒのカミも カミムスヒのカミも あるいはタカマノハラも もう今では言わないのであるが 天地とか神とかのことばは 今でも用いているということになっている。たとえば《みな独り神と成り坐(ま)して 身を隠した》とは いったいどういうことか これを考えておくことによって いまの現代に立つ。
これをおこなわなくとも(あるいは どこまで さかのぼってみるかも 同じく問題にしなければならないだろうけれど しかも 過去にさかのぼらなくとも) われわれは 現代人である。そして それだけでよいとも言えない。あたかも 一見するだけで時代はちがうのだからというので むしろ今のわれわれが《みな独り神となりまして 身を隠す》ようにして 人生をおくり 社会生活をしていると言えないというものでもない。古事記では つづいて 伊邪那岐神伊邪那美神の段に入れば 現代と同じような社会生活が 始まる。二人は その互いの人間関係の問題にかんして 初めの高天原なる天つ神に相談をしたり その天神のみことのりとして 国土をつくりかためたと言ったりすることである。ここに来れば たしかに 現代人とのつながりが見えてくる。あるいは 社会生活のごく基礎的な人間存在や自然界のことでは つながりがあるかも知れないが そのかれらの具体的な考え方では もうその思想は古いということであるかも知れない。
だが これらを そのように いちど知り 言ってみなくては われわれの現代は 分からないし また たしかに ある過去との比較をおこない その限りで現代が こんどは わかったとしても さらにその反面で 未来へ向けて積極的に 古事記なら古事記のように――つまり 一編の新事記なら新事記としてのように―― 一定の考えを表現してみなくては 現代の思想を明らかにしたとは 言えないかも知れない。一定の考えは 実際には 個人個人の社会生活として 生活があるところでは すでに つねに 表現されているわけだけれども その実際の生活表現の過程で 自分の考え方を 同時に捉えているということは 決して じゃまになるものではない。現代の思想というときには そしてこれを問い求めているというときには いま言ったようなことが 一つの目標である。
とうぜん個人個人に思想は多様であるだろうが 現代とかいうふうに捉えようとする場合 ある程度 一般的な見方・考え方も 論議しうるようである。たとえば 《みな独り神となってこそ むしろ身を顕わしている》といったようなことが われわれ現代人について 議論されるかも知れないのだし そのときには むしろ依然として 人びとは その頭の中に 《高天原〔の天神による司令〕》を持って 行動しているかも知れないのである。近代の初発の時 人は おのおの自分の高天原を持ったと言いうるのかも知れないのである。単純に類型的に考えて 人は そうして 自己の天之御中主神をいただき 自己の推進力(高御産巣日神神産巣日神)をそこに持つと自覚したと 言って言えなくはない。ムス(産巣)は 息子・息女のムス 苔の産ス・生スであり ヒ(日)は ヒ(霊)である。経験合理思想は その具体内容に入る前の・つまりはその具体思想を推進するところの 能力じたいとして ムスヒでありつづけていると考えられなくはない。この点は ヒ(霊)などと言うから 表現が古いものではあっても 現代人の生活実際から遠くへだたったものだとは 言えないという考え方も成り立ちそうである。自己のアメノミナカヌシをいただきと言ったのは 表現だけではなく 内実も もう遠くへだたったものであり まちがいだとも考えられるが 時には そういった昔からの中心の神に反撥しなければならないという場合には じっさい これをいただいていると言わなければならないかも知れないのである。アメノミナカヌシと表現するかしないかが 違うだけである。だがもう少し言うと ムスヒは 物質と言うのと それほど変わりはないのではないか。そのような客観真実のことを タカマノハラ(ハラを一つの根源とみなして)と言い変えてみて その種の現代思想の まづは成り立ちを捉えるということも まったく不可能でもなく無益でもないように思われる。
(つづく→2007-12-22 - caguirofie071222)