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哲学いろいろ

#3

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§1 この世に留められた霊という不幸c

――対話 日本の原像 (中公文庫) ――
2007-12-19 - caguirofie071219よりのつづきです)
永劫回帰というものの見方を――特に回帰ということを つまり生まれ変わるという思想のほうを―― 進歩思想で葬ることも 人間の我意(主観)であれば この回帰の全体観としての事実認識を 共同体の全体で よってたかって 個々の人間に すべてにわたって 押し付けるのも 我意であります。
もしその昔――ごく最近まで―― アイヌ人は このことを 人間の我意だとは思っていなかったのだとすれば そうして そのことにこそ注目し問題提起をされているのだとすれば 確かに 全体観が 個人個人の思想と 一体であることが 普遍的な理想の世界観だということになるでしょうか。そうであるかどうかは 微妙であるでしょう。相当 譲歩してものを言っておりますが このことが 問題にあるとわたしには思われますが いかがでしょうか。


梅原先生 先生が アイヌ人の生活観から 人類の普遍的な世界観を捉え これを紹介するだけではなく 今にも実践できると説かれるとき こんどは 前提としての全体観(その復活)と それの個人個人における生活観としての実践との 関係の問題に入ると考えられます。そして ここに取り上げられた全体観は たしかに全体観であると思うし それは まだ人類といった全体に立ったその事実認識 前提の認識であるように思われます。
そしてもし この人類が 我意を持つ人間を許容して歴史をあゆむのだとするならば――しなけれならないのですから―― わたしにはむしろ 《回帰》を 説明表現としてでも もう止めて その意味で近代人の歴史観に立つほうが よりいっそう現実実践的であるように思われます。わたしたちは 《生まれ変わることができない》のです。説明表現としてでも そうであり これは ほかならぬアイヌ人の世界観の むしろ正統な受け継ぎだとさえ 考えられるのではないでしょうか。
《動物をカムイ(神)と考える思想》(p.198)は 《回帰》につながっています。もしくは カムイとか神・霊・魂とは いったい何でしょう。それらをたとえ言ったとしても むしろそれによってわれわれは その人生が 一回きりだとしたほうが よいと思います。アイヌや沖縄に残る世界観は もしそうだとするならば このことを語っているように考えられるのです。もしそういうのでしたら 《動物をカムイと考える思想》は 哲学であり いわゆる宗教ではないのでしょうから。前提事実の全体観には とどまっていないということでしょうから。全体観として妥当だと言って 宗教(その制度)として一人ひとりに押し付けるというものではないでしょうから。
《人間が長い間かかって発明した哲学》なのであり つまり

もちろん このような〔アイヌの〕世界観に人間の我意が含まれていることは否定できない。熊や樹に あなたがたはミヤンゲをもっておとづれた客人かと問うなら 彼らはおそらく いやいや 私たちはそんなものではありません 人間に殺されるのはいやですというにちがいない。しかし 私はそれは本来自分と同じ魂をもった動物を殺さねば生きていけないという人間存在のパラドックスを説明するために 人間が長い間かかって発明した哲学ではないかと思うのである。
(《日本の原像》p.199)

ということは 従って わたしたちは――個人個人の哲学・思想つまり生活態度が問題だとするならば―― 熊や樹に問うのではなく おそらくアイヌも 天に問いかけるのでしょう。つまり そういうかたちで 先の前提事実から 出発するのでしょう。ですから その出発と問いの結果 《人間が長い間かかって発明した哲学》は 永劫の天の世界を 自分たちのあいだで 互いに想起するものとして 世界観になった。
ただ 天にかんする世界観というのは これまた 人類全体の立ち場に立った事実前提の認識と哲学(神学)です。一つの形而上学は 形而下では 一方で 全体観であり もう一方で 前提事実の認識や自覚に属します。つまり 《この人間存在のパラドックス》の認識や自覚です。ですから 問題は さらに前へ進んで 個々の人間の生活実践 つまりは 熊や樹にでもなくあるいは今度は天にでもなく 一人ひとりの人間に直接 問いかけることです。それは 前提事実の全体観を 押し付けることでないのは言うまでもなく 直接そのまま問いかけることとも 別です。もちろん それはそれで いいのでしょうけれど こんどは しかしながら この哲学を なお全体観の次元で 説くことも 哲学でなくなる要因を持つ。《カムイ》が入ってくるからです。《回帰》を言い したがってつねにまだ前提全体観にとどまるからです。
近代人をい継承する現代人も たとえ《動物〔や自然〕を自分の意のままに支配し殺戮する権利をもっているという哲学》に立っていたとしても 《人間存在のパラドックス》つまり前提世界観を 知らないわけではない。
そうすると――当然そうだと思うのですが そうすると―― この近代人の哲学よりはるかに健全であると思われるというアイヌの哲学を あらために採用するということは 結局 イヨマンテの儀式を 社会全般にわたって復活させ また 儀式の問題だけではないとしたらなら 《動物をカムイと考える思想》を じつは やはり全体観のかたちで 共有しようということになると思われます。《人間存在のパラドックス》は とうぜん 世界の前提認識であり しかしながら このパラドックスを アイヌのカムイ学で解いたというのは 哲学と言えるとしても まだ前提全体観の地点にあります。イヨマンテの儀式・そういう形式的な儀式が 問題なのではないというなら あとは じつは 《動物を われわれと同じ魂を持ったカムイとして 〈思いこむ〉》なら すべてうまく行くだろうと言っていることにしかならないからです。動物支配や自然開発ないし環境破壊が いくぶんその程度は 弱まるかも知れませんが。《カムイ》が入ってくるからです。
ところが 《動物には 人間の持つ理性がない》という今ひとつの前提認識は 全体主義的になったとしても 基本的には カムイ学の思いこみから自由であり 前提認識の その内部での宗教的な心性による堂々巡りから自由です。前提認識じたいが いや 別のカムイ学となり神学となり宗教となってしまいうる――だからそのときは 全体主義思想が起こった――とは言えるのですが ただ いくらかの無理を承知で言うならば このほうが すでに 先の人間存在のパラドックスを見失わず そこから出発し 一歩すすめた哲学であるはづです。
基本的に あるいは潜在的に 考えてみて 《動物にはない理性を持つ人間》を 一歩すすめて立てたほうが そうではなく 依然として《動物は人間と同じ魂を持つ》というふうに見る哲学よりも 前提認識から 現実実践として 出発することができる。後者の哲学のままでは 思いこみとしての(ないし宗教としての)内部堂々巡りの出発であり また しかるがゆえに どこまでも 全体観の押しつけになりがちである。前者のほうが 人間存在のパラドックスである前提を見失わないならば 個人個人の実質的な実践を 自由に 進めていくことができる。もし言うとすれば 自然破壊の度合いが はるかに大きいという不幸を 伴わなければならなかったとしてもである。
近代人の哲学も 長い間かかって発明した思想であり それは決して 人間存在のパラドックスを知らないわけではない。縄文人の宗教によらなくても 現代人も 動物や植物をけっこう愛している。そのことを

私は アイヌにごく最近まで残っていて いまはほとんど断絶した宗教儀式や 沖縄にまだ現在残っている宗教儀式の中に このもっとも古い日本の宗教が残っているのではないかと思う。
(同上p.195)

という言い方で つまり縄文人の世界観の見直しという言い方で 指摘されるとしても この《日本の原像》にそっくりそのまま 還るということでは ないと思われる。宗教儀式の復活の問題でないとすれば――それを何なら含めてもよいのかも知れませんが―― 当然 どう活かすかが 問題である。いうとすれば この問題は 個々の人間の復活ということにしかならない。つまり 抽象的には それでよいと思われるのですが したがって 直接 個人個人に話しかけることが 問題である。ところが ふたたび このことは 近代人の世界観がむしろ勝ち取ったものだと考えられる。基本的には そう言ってよいでしょう。その昔のアイヌの人びとを 貶めることにはならないでしょう。そして 今では人類が狩猟採集を去って農耕の生活を始めなかったなら わざわざこの近代人が 個人の思想を〔再〕確立することもなかった とは言えないと思います。そういう言い方は《弱者》のものである。おそらく先生は この手続きをご存じであって それでも 抜かしていらっしゃる。口はばったい言い分ですが タイム・トンネルをくぐり抜けて 《遥かなる世界から》としてのみ 議論をしているという要素が つよい。いや そっくりそのまま今 アイヌの世界観を身につけることは できかねるとも はっきりおっしゃっている(p.117)わけではあるのですが。それでも もし《動物をカムイと考える思想》が 神学であり宗教であり 個人をとおりこして 全体観だけとなってしまうものだとしても それは 近代人の哲学が現代にまで至って持つその弊害の部分よりも ましであり はるかに健全であると考えられているとしたなら 話しは べつでしょうが。つまり そのときには もう一度はじめから 議論をおこしなおさなければならなくなるでしょうが。

(つづく→2007-12-21 - caguirofie071221)