caguirofie

哲学いろいろ

#176

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第十七章 イエスの《十字架の死‐復活‐アマアガリ》をつうじての聖霊の派遣が 人間の《第一の死(罪)‐復活(正しさ)‐第二の死の方向転換=アマアガリ(裁き)》なる三一性ないしその過程を 明らかにする

前章に引用した 《聖霊の派遣》にかんする《ヨハネによる福音》の中の一節は おおきくあの最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語った話の中に置かれている。すなわち 他の三つの福音書とはちがうかたちで その《第十三章第一節から第十六章の最後 あるいは第十七章の最後まで》というふうに 長く詳細に記されている。
前章の引用部分は しかしむしろ《聖霊の働き》と要約される箇所で ここで次には 上の一連の話のなかから 《聖霊を与える約束》と要約される箇所 すなわち その《派遣》について述べられた部分を 同じく取り上げたい。
前章では イエスの行かれたあとすぐ 聖霊の時代が始まったと見たが ここでは同じことを逆に 次に見るようにイエスが弟子たちに語られたことがらを なおも引きつづき あの晩餐の席で・つまり十字架上の死の直前に 語られていると見ることによって なお現代にまで この第二のアダムの時代が 受け継がれていると言うこともできる。

《わたしを愛しているならば わたしの掟を守るがよい。そうすれば わたしが父にお願いし 父は弁護者を遣わして 永遠にお前たちといっしょにいるようにしてくださる。このかたは 真理の霊である。この世は この霊を見ようとも知ろうともしないので 受け入れることが出来ない。しかし お前たちはこの霊を知っている。この霊がお前たちといっしょにおり これからも お前たちの内にいるからである。わたしもお前たちをみなしごにはしておかない。お前たちのところに戻って来る。
しばらくすると この世はもうわたしを見なくなるが お前たちはわたしを見る。わつぃが生きているので お前たちも生きることになる。〈かの日〉には わたしが父の内におり お前たちがわたしの内におり わたしもお前たちの内にいることが お前たちにわかる。わたしの掟を受け入れ それを守る人は わたしを愛する者である。わたしを愛する人は わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して その人に自分自身を現わす》。
イスカリオテでないほうのユダが 《
――主よ わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに この世にはそうなさらないのは なぜなのでしょうか。
と聞いた。イエスは答えた。
――わたしを愛する人は わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され 父とわたしとはその人のところに行き いっしょに住むことになる。わたしを愛さない者は わたしの言葉を守らない。お前たちが聞いている言葉はわたしのものではなく わたしをお遣わしになった父のものである。
  私はお前たちといっしょにいたとき このように話していた。しかし 弁護者 すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が お前たちにすべてのことを教え わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくれる。わたしは 平安をお前たちに残し わたしの平安を与える。わたしはこれを この世が与えるようには与えない。動揺してはいけない。おびえてはならない。《わたしは去っていくが また お前たちのところへ戻って来る》と言ったのをお前たちは聞いた。わたしを愛しているのであれば わたしが父のところに行くのを喜んでくれるはづだ。父はわたしよりも偉大なかただからである。そのことが起こったときに お前たちが信じるようにと いま 事の起こる前に話しておく。もはや お前たちと多くのことを語ろうとは思わない。この世の支配者である悪魔がやって来るからである。だが わたしをどうすることもできない。むしろ わたしが父を愛し 父がお命じになったとおりに行なっていることを この世は知るべきである。さあ 立て。ここから出かけよう。
ヨハネによる福音 14:15−31)

第二のアダムの時代と言おうと 聖霊の時代と言おうと けっきょくは 同じことであるのですが もしこれらに 人間の側において 時間的な経緯が存在して 過程的に生起すると仮りに捉えるならば それはここで 次のことを意味します。
《わたしは去って行くが また お前たちのところへ戻って来る》 そしてそれは 《わたしが父にお願いして 父は別の弁護者を遣わして 永遠にお前たちといっしょにいるようにしてくださる》ことによって であるなら あたかもこの時間的な経緯は われわれの史観に照らして いや かの光に照らされわれわれの史観において そのわれわれの第一の死(キリストの十字架上の死)と その後のあたかも復活(実際 キリストの復活)をとおして 第二の死を方向転換するアマアガリ(キリストの高挙と 聖霊の派遣)という方程式の過程に比されているということ。これが 第二のアダムの時代から 聖霊の時代へのあたかも移行と捉えられるということ。なぜなら われわれは 《日々 死んでいる》のです。もしくは 基本的に 第一のアダムの子孫として 第一の死を受け継いでいる。これによって あたかもキリスト・イエスと同じように 十字架上に登らされ――しかもさらに同じように 《わが神 わが神 なにゆえわれを捨てたまいしや》と言ってのように―― 死ぬのです。このあと イエス・キリストの死にあやかるならば その復活にもあやかってのように われわれ人間は かれから つまりかれの父とかれから 神から来て神である聖霊を与えられ受け取るのです。受け取って 第二のアダム(生命の制作者)の《戻って来る》のを見る。これが 《聖霊の派遣》と言われるわれわれの歴史的時間ということ。前章に想定したその枠組みの中の内容です。
《父はわたしよりも偉大なかたである》とキリスト・イエスは語られた。父なる神のペルソナと子なる神のペルソナとは 三位一体において等しいとわれわれは告白するというのに。しかし 人間キリスト・イエスは 神のしもべの貌(かたち)として 《わづかのあいだ 天使たち(また 神々ともよばれる世の指導者たち)よりも低くされて》 身体の死を経験された。このかれは 父よりも小さいかたである。しかし 同じイエスが 神の貌(かたち)としては
 《わたしは去って行くが また お前たちのところへ戻って来る》 あるいはまた 《父が持っておられるものはすべて わたしのものである。だから わたしは そのかた(聖霊)がわたしのものを受けて お前たちに告げると言ったのである》(ヨハネ16:15)と語って 父と子とは あるいは 両者と聖霊とが三位一体として まったく等しいことを明かされている。ゆえに この永遠の生命(神の国)において 人間としての十字架上の死と復活が われわれ人間にとっても過程的に 生起する。《そのことが起こったときに お前たちが信じるようにと いま 事の起こる前に話しておく》と はなはだ遠くかけ離れた不類似の類似としてではあるが それが生起するこの歴史的時間をそのまま移してのように いまのわれわれの存在に語られる。
時を移すころなくながら あたかも時を移してのように ここで 第二のアダムの時代は 聖霊の時代へと入って行く。まづ 原理的にそのまま 生起するのである。(もちろん 聖霊の時代とは 父と御子キリストが われわれの内に留まりたまうという内容である)。


《わたしを愛するのであれば わたしが父のところに行くのを喜んでくれるはづだ》は 《自分の命を保とうとする者は それを失い わたしのために命を失う者は かえってそれを保つのだ》(マタイ10:39)と言われるように われわれの存在の側から知られる。
だから 《わたしを愛する人は わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され 父とわたしとはその人のところに行き いっしょに住むことになる。わたしを愛さない者は わたしの言葉を守らない。お前たちが聞いている言葉はわたしのものではなく わたしをお遣わしになった父のものである》なら この父と子との一体は わたしたち人間の記憶と知解との一体をとおして すなわち 第一の死から第二の死の方向転換という永遠の生命への復活の視像とその把握をとおして これを見うる。父と子との一体なる愛は そのまま 聖霊なる神であるから この三位一体は 人間の記憶と知解の一体の中に その〔行為の〕方向性として第三の意志が加わってのように 三一性をかたちづくり この三一性をとおして 〔三位一体ご自身が〕みづからを現わされる。
ここで 人間の意志が その精神においてこの三位一体を見まつるというだけではなく 聖霊なる愛なる神によって生かされてのように したがって 人間の三一性は 人間が これらを自己のものとして所有する。ここに 第二のアダムの時代から聖霊の時代への移行を見るである。《血筋によらず 肉の意志によらず また 人間の意志にもよらず 神によって生まれた人びと》(ヨハネ1:13)の時代である。ここに 人間の意志は 愛として 享受する人の愛の完成として 弁護者なる聖霊を得てのように 神の愛と人間の愛のなかに 過程されようとしている。
《わたしの言葉を守る》とは アマアガリとは言えども 神の言葉それじしんに成ることは不可能であり また人間の意志にしたがって天使のようになって アマガケリゆくことでもなく 人間の側からもする神の愛と そこから発出される聖霊を得てのように 人の愛とのなかに 問い求めてゆくこと。《そのことが起こったときに お前たちが信じるように いま 事の起こる前に話してお》かれた方程式が 人間のあいだで受け止められ 歴史的時間のなかで歴史的時間として この歴史的時間をとおして(わたしをとおして あるいは きみをとおして) 見られ得る。
これを 人間の側から その固有の意味で 聖霊の時代として把握する。
《真理の霊であるそのかたが来るとき お前たちを導いてあらゆる真理を悟らせる》(ヨハネ16:13)と言われるとき 人間の理論の時代を経て これら人間の諸理論をとおして 真理を悟る時代が それである。諸科学・諸理論における記憶と知解とが 意志をとおして いや聖霊なる神を受け取って 愛のもとに 人間の三一性なる似像として 所有され用いられる時代。このことは 人間に可能。
(つづく→2007-11-09 - caguirofie071109)