caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第六章c 歴史を隠れたところで点検し明るみに出す――キリシタンのこと――

ザビエルと山口の庶民との問答。――

一ないし四(省略)
五 彼らは 

善人の霊魂は肉体を離れると デウスを見るかどうか。

  • 愛は この世にあっては見えないが 死ぬと見うるのか。

と質問した。我れらはこれに対し

その善人が肉体が死ぬ際に もはや浄化を必要としなければ 彼はただちにデウスを見ることができる。

と答えた。

  • ここでは このように 生と死〔とその克服〕の問題の観点から 議論がつづきます。

六 彼らはその答弁に対して

しからばその善人は この世で肉体を持っている間 なぜデウスを見ることができないのか。

と聞き返した。我らは次のように答えた。

宝石どんなに輝いていても泥の下に埋まっている限り 光彩を放ちはしない。それと同様に我らの霊魂も この肉体の中に固定している限りは その輝きと視力を行使できない。したがって霊魂は この世ではデウスを見ることができない。

のだと。
七 すると彼らは 

もしそうであって 人間の霊魂は体を持たないとすると それは神( Deozes )であり それゆえ生まれもしないし 死にもせぬだろう。

と言った。我らはそれに答え 彼らに向かって

人間の中には 善人と悪人があると思うかどうか。

と質問した。彼らは 《ある》と言った。そこで我らは彼らに次のように言った。

主なるデウスは 世の中を統べ かくも美しいことどもを司り給い 悪しきことは行ないもせず考え給うこともなく きわめて聖にして善なる御方であるから 悪人の霊魂はあなた方が言うように神ではなくデウスの被造物であることが明らかに判るのだ。

と。
八 他の連中は 

悪魔(デモニオ)とは何か

と質問した。そこで我らは彼らに対し 

それは自らの傲慢さのために 栄光とデウスを見奉る資格を喪失したルシフェルとその他多くの天使たちである。

と答えた。
九 すると彼らは

悪魔はなぜ人間を誘惑し 人々にいとも多くの禍を及ぼすのか。

と質問した。司祭は彼らに答え

人間はデウスの栄光のために創られたが 悪魔は自ら傲慢であったために その資格を喪失したので 人間を羨み 人間もまたその資格を失うに至らせようと 人々を欺くよう努めているのだ。

と言った。
十 さらに他の連中は 

我らの主なるデウスが創造したものがすべて善きものであったならば なぜ彼は 悪しく かつ傲慢な霊としてルシフェルを創ったのか。

と質問した。司祭はこれについて 次のように答弁した。

デウスルシフェルとその仲間とを創った時に 彼らが悪と善(――または 疑いとその克服――)とを認識できるように 明白な理性を そして彼らが自分のしたいことを選び得るように 自由意志を授け給うた。それは彼らが善を選べば栄光を ただし悪を選べば地獄を与えんがためであった。しかるにルシフェルは他の悪魔たちとともに その自分たちに授けられた自由意志を悪用し 自らの罪悪によって悪しく かつ傲慢になった。一方善良な天使たちはそのようなことをせず デウス服従し かくて永遠の栄光を獲得したのである。

と。
フロイス:日本史 1・7)

スサノヲは 自己の知恵の同一にとどまろうとしたが 自分の欲求(つまりひろく愛)によって アマテラスの疑いに対処し前史を生きた。その結果 後史へ回転せしめられて 前史にあっても《デウス服従し》ていたと その歴史を見たのであった。長いけれども
この問答をさらに見てみよう。

十一 他の人々は 

デウスが憐れみ深く 永遠の生命が得られるように人間を創造したのならば なぜデウスは悪魔が人間に 災禍を及ぼすのを放置しているのか。

と質問した。我らは以下のように答えた。

悪魔は人間に対して 人間が悪をなすよう教唆する以上の力は持ち合わせていない。ところが人間は 善悪を識別する能力と 自らが行ないたいことをする自由を持っている。それゆえ 人間が悪を行なう時には(――疑いを持っている あるいは 疑いに絶望していない時には――) 自分が道理に反したことをしていることや(――道理は承知しているのだが これをおこなうことに疑いを持っていることや――) それに対して罰せられることを知った上のことだから(――したがって 道理の次善の策として 疑いの体系としての掟・刑法などを みづから編み出し これによって交換経済を共同自治していると知った上でのことだから――) 彼ら自身に〔――そのように おこないや愛の始原があったのだから――〕責任がある。

と。
十二 さらに彼らは

もしデウスが 人間が善良であり(――ともあれ自給自足主体であり――) また栄光を授けるように 慈愛の心をもって人間を創造したのならば なぜ人間がつねに悪事をなしたり それをしたがるように創ったのか。

と言った。これに対し我らは次のように答えた。

デウスは万事を善い状態に創り 人間をもまた善良なものとして創り給うた。そして人間には 悪事を認め それを拒み売得るようにと明白な理解力を授けられた。したがってもし人間が悪事をなすならば それはデウスから授かった理性が語っているのと反対のことをしているのであった 彼ら自身が悪くしていると言い得よう。

と。
十三 彼らは 

デウスがいとも慈愛深く 我々をデウスの栄光のために創ったのならば なぜデウスはそこに至る道をこんなにも難しいものにしたのか。我れはつねに肉体と感覚でもって道徳の業(わざ)をいやがり また我々が栄光へ達するためにデウスが我々に命じている道を守ることを嫌悪しているではないか。

と言った。我らはこの疑問に対して次のように答えた。

もし人間が肉体の弱点をよく用いるならば デウスの掟はその人にとって非常に容易に実行できるものであり 彼はそれを遵守することにより(――時に破廉恥なことをおこなってまで 自己の知恵の同一にとどまろうとするならば その前史は後史へ回転せしめられて――) いっそう明るい生活ができるであろう。なぜなら人間が食べたり眠ったり休んだりしたい気持ちがあるのに デウスは断食して飢え死にせよとか 奇蹟を行なえなどと命ぜられはしない。そうではなく 自分を創り 罪から贖って下さった方 そして霊魂を救済して下さる方を礼拝し その方に仕えることや 隣人を愛するようにと命じておられるのであって それを実行することは困難なことではない。またデウスは 禁欲家になれないという人にそうあれと命ぜられはしないし 童貞であることを義務づけることもなく ただ妻は一人しか持ってはならぬと命ぜられるに過ぎない。

と。
・・・
二十一 彼らはこう言った。

世の中にはいとも能力に欠けていて それほどまでに理解力を高め得ず 誰が自分たちを創造したのかが解らない者も大勢いるが これらの人はどうなるのか。

と。これに対して我らは次のように答えた。

そのような人々は その乏しい理解力で理解したわづかなことに従って それを善用し 悪いと知ったことをすべて斥け 善いと思われることをなせばよい。そうすれば慈愛深いデウスは 彼らが授けられた理性の光を善用しているのを見給うので 彼らが自らが救われるためには何をせねばならぬかを彼らの心に解らせ給うであろう。そして彼らが理性に反して 木石を拝むことなく 万民を救い得る唯一の方であるかの真のデウスを拝むように望み また実際に拝むよう解らせ給うであろう。かくて彼らが自然の掟に従い デウスの慈悲によって生きるならば 彼らもまた救いの恩寵が得られるであろう。(――後史に入って愛の王国を見るであろう――)。なぜならば永劫の罰を受ける人々はもっぱら自らの罪業によってそうなるのであって 彼らにデウスの恩寵が欠けているからではないのである。

と。
フロイス:日本史 1・7)

表現に幼稚なものが見られるが 方法の問題として これで十分によく論議されており 生活原理としても いわば東と西との出会いが成ったと考えられる。ただ ヨーロッパのかれらは これを おしえとして――時にスサノヲが嫌った司祭となって――述べているという違いがある。この限りでは その後のキリシタンの消長にかかわりなく スサノヲの系譜はつづくのである。わたしがあたかも司祭となって説くわけではないけれど ここに述べられた教えは 前史から後史への過程という観点をもって見るなら よりいっそう明らかになるかと思われる。
けれども この交換経済の時代にあって アマテラスの系譜との関係の中に――しかも支配関係の中に――生きているというとき 人びとは この歴史に対して 科学的な理論によって明らかになるような点検を問い求める。それは 正当な問いであるけれども まづは 方法の行き詰まりではなく 社会生活の複雑さなのであって そこに交換価値をめぐる物象化論が説かれる理由があるが またそのような構造と条件においてのみであることを 銘記すべきであると思う。
おしえ――つまり 専従の司祭のおしえ――としての神は死んだけれども 復活の歴史がなくなったわけではない。哲学的ないし政治経済学的な物象化の理論より前に このような方法が 議論されるべきであると思う。じっさい 物象の人間化 人間の物象化という(つまり 単独分立した交換経済主体化という)議論の視点は 人間の前史から後史への復活という歴史を見ているのである。その点 じゅうぶん 注意すべきである。
そしてその視点は すでに キリシタンの出現の以前から 生起して存在していたと考える。これ(つまり その過去の歴史)に立って 司祭バテレンたちと 日本人は 自由に討論したのである。しかし日本人は 建て前はどうであれ その宗教化を嫌った。つまり そのような隠れたところで歴史を点検し これを明るみに出して 新しい論議を呼び興すべきであって 物象化論の教えを守り 教えの中でその仔細を究めようとすることは いまひとつ別の作業であると考える。マルクシスムの教えの司祭に(つまり いわば 顕われキリシタンに)なるべきではなく むしろ司祭はなんなら 各自の内なる隠れたところではたらいているのであって そのように揚棄されていることでなければならないであろう。こうして隠れキリシタンとなっていたスサノヲたちも いっそう明るい生活へ移行するであろう。
(つづく→2007-05-04 - caguirofie070504)