caguirofie

哲学いろいろ

もくじ→2005-02-06 - caguirofie050206

サルトルとボヴワール?

ポーラは いつぞや サルトルとボヴワールの関係がいいわねと もらしたことがある。藪から棒でもあったが わたしの趣味ではないので とりあわなかった。これが いけなかったかとの省察がある。
ただし その頃からは わたしは受け身であって なにかこちらから要求することはなにもなかった。なにかを申し出るなどということは なかった。だから 上の一言を取り合わなかったとしても それを排除しようとしたことにはならない。(むしろ わたしのほうが 排除されていつつあったのだ。)
もっと強く話しを進めてくれればよかったという問題でもなく 価値観がかみ合わないと早くからわかっていたんだなぁと思う。そのことをもっと真剣にあつかっていけばよかった。

第二考

いや やはり この上の反省は ポーラの場合には 成り立たない。価値観がちがうも何も 話がつづかなかったのだから――それでも 機嫌伺いで声をかけたときには 《デート》に応じたというのだから そしてわたしは その過程を経なければ たとえ別れるにしても あたらしいページは開かれないと考えていたのだから―― ふと なにげなく大事なことをもらされても 対処法がなかった。
強引に別れるという方法はありえなかった。わたしにとって なにも(ほとんど その現在のこととしては)楽しいことはなく つながっていること自体が不思議なくらいだったのだから それ以上 別れるということは ありえない。 
もし サルトルらの男と女の交際の仕方が 嫌だったのなら はっきりそう言って 別れなら別れのほうへ持っていけばよかったではないか。――高校時代からのいきさつでポーラは そんなことは とっくに分かっていたはずである。考えてみれば わたしが取り合うということにでもなったら そのほうがおかしいという問題であった。
ならば 上で わたしは なぜ 省察があるとしたのか。きっかけになるべきことがらだったと あらためて悟ったのだろうか。つまり その言葉で すべてを了解とし 二人はおしまいとして わたしは 引き下がっていれば済む問題だったのかも知れない。
正直に言えば もしそういう判断で 事を起こしたとき(つまり もう何も接触しないという行動をおこしたとき) 間違っていた場合が こわかったと言える。接触しようとして声をかけるという行動を起こして間違った場合のほうが まだ望みがつながると考えた。望みとは 円満に離別するということである。
このようになる。このように考えられる。こうなると まだまだ いろんな細かい問題があるのかもしれない。一筋縄で考えていては らちが開かない。なにしろ みづからをもあざむいての世紀の大作戦だったのだから。