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哲学いろいろ

全体のもくじ→2005-02-06 - caguirofie050206

ポーラの述懐 第三章

第一章(1〜8)→2005-03-25 - caguirofie050325
第二章(9〜10)→2005-03-29 - caguirofie050329
第三章(11〜12)→本日

11.ポールの性格については 直情径行にまちがいはないと思いますが・・・。

ポールについては 本人の自己申告から周りの人びとの批評まで いろんなことが言われています。それぞれの内容の間にそれほど大きな違いはないと思いますが わたしの見方を少し披露させていただきたいと思います。
直情径行か。君子豹変?
いちばんの共通事項は 本人も言っているように 四字熟語でいえば 直情径行というものです。わたしは この同じ性格をいくらか違った角度から捉えて見たいと思います。
まず 広辞苑で調べてみました。

  • 直情:思ったままに表現して飾らないこと。また ありのままの感情。
  • 直情径行:[礼記 檀弓下]相手のおもわくや周囲の事情など気にしないで 自分の思った通り行動すること。(用例:・・・な青年)

ここでわたしは 同じ四字熟語であれば 君子豹変をキーワードとして提案したいと考えています。君子を言うためではないのですが 変わり身の早さを言うのに いいかと思いました。まず やはり辞書を引いておきます。

  • 君子は豹変す:[易経 革卦:君子豹変 其文蔚也 小人革面 順以従君也]君子がその過ちを改めると鮮やかに面目を一新する。俗に 考え方や態度が急に一変することに使われる。

この説明のなかの通俗な使い方が ひとつの条件をつければ ポールの性格をうまく表わしているはずです。その条件とは 相手の合意や承諾を得られればというものです。
相手の存在に関係なく自分だけの問題であるなら 変更できることはすぐに変更するでしょうし 相手の承諾を俟っている場合に それ以上は快諾がなくても已むを得ないと判断すれば やはりすぐに変わるということだと思います。
全体を まとめて言えば こうなるでしょうか。

すべてのことについて相手に諮った上で さらにその合意や承諾などについて同じくすべてを最終判断した結果 もし自分が決断したとするなら そのときには ただちにものごとを改革し 自分自身も変わる。

問題は? 
問題があるとしたなら それは それ以上相手の意向に俟つ必要がないとポールが判断するときが 時には 早すぎたりするということであるかも知れません。
少なくとも 相手には 見切り発車だと取られてしまうことがあるのだと思います。そして 相手の意思を尋ねるときに かれは まさに直情径行で すべて〔許すかぎり〕公開・公言するかたちで明言します。
そして ふつうは この段階で その相手は ある意味で恐れをなして 譲歩することが多いようです。譲歩しえない場合には ポールから去っていくということです。
相手自身が去る必要などないとき つまり相手のほうが目上であったり いわゆる多数派であったりするときは とうぜんの如く ポールはその場から外され 相手にされなくなります。
ポールが自身にとっての異性であるおんなに対して その交際の合意を得るために ついやすことばと時間とこころとは わたしの経験からいけば 無限だったと思います。見切り発車はなかったのでした。
相手であるわたしが はい合意しますと言うまでは 延々とそのコミュニケーションがつづきます。永遠にです。そして ひとたび わたしがOKするならば ただちに革命がおこります。そのようにわたしは 見ていたのです。

12.直情径行と言っても 心理や情況の雰囲気では 動きません。

或る時 多分 大学一年から二年へ進む春休みだったと思いますが ポールは はるばるわたしの町を訪ねてきました。このときは どこへ行くと言って まずわたしの家へやって来ました。しかも わたし一人でいるところだったのです。
じつは とうぜんの如く わたしが 母と相談して 一度 そういう機会を作ったのでした。少し手持ち無沙汰を感じたわたしは 高校野球をやっていたので そのテレビ中継を見ますかと かれに そのわたしのぎこちなさの心をぶつけました。
ポールは 大学時代だけですが 野球部に入るくらいですから 嫌うことなく わたしの申し出を受けて それに従っていました。わたしも落ち着いてきて かれの様子をひそかに窺っています。要するに かれの狼の部分が現われるかどうかの問題です。
要するに かれは わたしの心理を詮索するということには まったく関心がないという様子です。相手が 言葉で 口に出して 意思を表明しないことには ポールは きちんと応えることはしないという主義です。情況がなんであれ 雰囲気がどうであれ 関係ないのです。かれには いったい 想像力がないのかと 初めのうちは 疑っていたわけです。
わたしの意思表示がないことには ポールはいっさい全く動きません。ほかのつもりがなかったわたしは 野球の試合が回を重ねるにまかせざるを得ませんでした。それを ポールは すべて受け留めて 自分の動きを保留し 待っているのです。一試合が終わるころには わたしが 白旗をあげました。もちろんわたしは そんな様子は微塵も見せるわけなかったわけですが。
いわばポールは 相手の意思表示を待つあいだ その時間が一日・一年・十年・五十年と続いてもそのあいだの態度としても じつは言うなれば 直情径行なのです。直情が 永遠につづいているのです。そして あらためるという場合 一瞬のうちにあらたまった新しい直情が ふたたび永遠につづきます。なぜ変革があったか ことばでの説明が必ず付いてきます。 
わたしは 婚姻ということに関しては 意志決定を保留しつづけました。言いかえれば NOという答えでした。そして かれポールと別れるかということに関しては もはや 別れる・別れないとは関係ない地点にいる自分を認めざるを得ませんでした。友というべきか あたかも身内のひとりというべきか。
と言っても わたしは 現実主義ですから この世の中に対して それを ポールの目をとおして捉えるですとか ポールと生涯の連れ合いとなって生きていくとか そういう選択をしようとは 思わなかったのです。聖書に書かれたことは 現実だとは考えがたいと思っているわたしが かえって その聖書の世界に没頭するようなかたちで 一人で 生きて来ています。
(未完)