caguirofie

哲学いろいろ

弁論術・修辞学

さてある雄弁家が言った。

雄弁家たるものは教えるように 魅了するように 説得するように語るべきである。
キケロ:雄弁家 21:69〔弁論家について〈上〉 (岩波文庫)〕)

彼が言ったことは正しい。さらに付け加えて言う。

教えることは必要なことに 魅了することは快さに 説得することは勝利に属する。

この三つの中で 最初に述べていること すなわち教えることの必要性は われわれが何を話すかにかかっており 残りの二つはわれわれがいかに話すかにかかっている。・・・
アウグスティヌスアウグスティヌス著作集 (第6巻) キリスト教の教え 4:12〔三種類の文体〕)

頭の痛い話である。そしてただ 部分的には 次のようにも つけ加えていてくれる。

しかし話すことによって真実が示されれば伝達の任務が果たされる。とすれば 魅了することは必要事でないし 雄弁もいらない。
真実そのものや雄弁そのものが 快さを与えることに注意をはらうには及ばない。真実が明らかになるとき それは真実だから それ自体で快さを与えるのである。だから虚偽があかるみに出され 確証されたときにも しばしば快さを与える。
(ibid. )

《レトリック(弁論術・修辞学)とロジック(論理学)》を相い反する二つの領域として互いに闘わせるのではなく・・・という見解も重要だと思う。→id:namdoog 060706

#14

――ポール・ヴァレリの方法への序説――

時間的なるもの もくじ

  • θ 現代における《時間》――衣替えに関連して全体的な《情況》――:2006-07-06 - caguirofie060706
  • ι 結び――《時間》における《出発》――:本日

ι

《不滅の生を望むな / 力の及ぶところを究めよ》というピンダロスによる主題を掲げたのは 西欧人ヴァレリであった。しかし この詩人の命題は 西欧における情況 言いかえれば キリスト教の系譜の中においてのひとりの《自己》による時間(その構造)の披瀝であった。
ヴァレリのこの命題が これまでぼくたちが捉らえてきたように《社会科学》の視点と《自己》との統合に対する困難さを表明するものであるとするなら 逆にかれは この中心点における統合を見る一思想的系譜に反を唱えたことにほかならない。
いまこのピンダロスによる主題が テレンティウスの主題でもあったことを想起すれば ちょうどこのテレンティウスに触れて アウグスティヌスが次のように述べるとき それは まさに ヴァレリが異を唱えたキリスト教の系譜の一中心的命題を語っている。

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