caguirofie

哲学いろいろ

2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧

アダムとエワと善悪を知る木

エワが《善悪を知る木(知恵の木)》から採って食べ夫のアダム にも勧め かれも食べた。 そのあと 《楽園》の中にいたアダムに 風の吹くころ ――アダムよ きみは どこにいるのか? という《声》が聞こえた。さらにエワには ――エワよ あなたは何ということをし…

もののあはれ・さかしら

《さかしら》は《漢ごころ》ないし《アマテラス規範語の使用による弊害》に限らないと思われます。 要するにその《理屈を用いるのときの ひとの心に起こる方向性――中立の意味での志向性――》を問題にしているように思うのです。 まづ《漢ごころ》の説明として…

もののあはれ

(1) 小林秀雄の言うように 《文字もしくは概念より以前の〈何か〉》にさかのぼれという議論は おそらくエポケーと同じ方向にある。 (2) その《何か》は 《もの自体 Ding an sich 》であったり あるいは《世界霊魂 anima mundi 》ないし《世界精神 Welt…

スサノヲだけがなぜ自由か

それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。 スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の…

 アウグスティヌス:十字架につけられたということが優雅な人々の気に入らない。

( Augustinus : De agone christiano ) しかし 自らに人間性を引き受け 女性から生まれ 罪びとたち からありとあらゆる苦しみを受けるという仕方でしか 神 の知恵は人間を解放することができなかった と言う人々は愚かであろうか。 それらの人々に対して …

坂びと

奈良坂・清水坂両宿非人争論(ならさか・きよみずざかりょうしゅくひにんそうろん)とは鎌倉時代中期承元4年(1210年)頃から、当時奈良興福寺の末寺の一つであった京都清水寺がその支配から逃れるべく度々抗争していたときに、清水寺の坂下の非人宿の非人た…