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哲学いろいろ

もののあはれ

(1) 小林秀雄の言うように 《文字もしくは概念より以前の〈何か〉》にさかのぼれという議論は おそらくエポケーと同じ方向にある。

 (2) その《何か》は 《もの自体 Ding an sich 》であったり あるいは《世界霊魂 anima mundi 》ないし《世界精神 Weltgeist 》であったりする。

 (3) むろんこれらは 《神は死んだ》というときの神である。すなわち 《観念の神》なのであった。想像の産物としての神のことだ。∽漢ごころ・さかしら。

 (4) ちなみにその死亡宣告を出したひとは ほんとうの非思考の神についてまったく知らなかった。別の超越的観念の像としての超人だの大地だのと言っていた。

 (5) 江藤淳との対話では 引用箇所のあとに小林は ベルクソンを出して来ている。《文字ないし概念より以前の何か》についてそれは《イマージュ》だと。これは 言語学では 《予定観念ないし意味思考( mening )》と呼ばれている。――概念としての言葉の成立の以前の段階で あたまや心の中に この《予定観念》が 《マグマや星雲》のごとく発生していると。

 (6) このイマージュないし予定観念は もののあはれを知るというときの知覚内容であるかどうか?

 (7) もののあはれに関して 宣長は 《道・自然之神道・古道・随神の道》と言う。もののあはれを知るひとだけから成るという社会の描像である。

 (8) 言いかえると 《人は人に対して狼である》という命題を立てない。《万人の万人に対する闘い》を見ない。つまりその命題から 絶対権力としての国家――巨獣レヰ゛アタン――を建てることによって 安全と秩序を図るという社会契約説を採ることと袂を分かつ。

 (9) ところが 《古道》とは ずばり天皇制国家である。二階建て構造の社会形態である。
 ▲ (排芦小船・第四二項) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 上古は人の心素直にて 偽り飾ることなければ 歌も己れが分量(* 分際・身分)を出でず。
 その身の上にて思ふ事をありのままによみ出でしものなり。されば上古の歌は実(まこと)にして天子の歌は天子の身の上の事 公卿百官はそれぞれの公卿百官の身の上の事(* 以上 アマテラス公民) 民百姓(* スサノヲ市民)は民百姓の身の上の事をよみて よく分るるなり。
 しかるに世だんだん末になり 後世になるほど 人の心偽り多く 思ふ事ありのままにもいはず つくろひ飾るやうになりゆくにしたがひて 歌もまた偽り多く・・・。
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 (10) ところが 安全と秩序もしくは《和 を以て貴しと為し 忤(さか)らふこと無きを宗(むね)と為せ》という《憲法》の条文は 聖徳太子が 崇仏派の蘇我氏とともに排仏派の物部氏を殺して権力を取ったあとで うそぶいているものである。二階建ての国という家が固まったあと言っているに過ぎない。
 また 物部氏と言えば むしろ古道の家柄である。

 (11) そのような《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制なる社会形態についてでも 宣長もののあはれを見ようとしたのは

  (あ) ひとつに スサノヲ(ないしオホクニヌシ)のイヅモが アマテラス帝国に そこからの服属の要求を受けて非戦論をえらぶことによって 《くにゆづり》をしたという事情のもとに成ったからである。《和をとうとぶ》のは スサノヲ草の根市民の側である。これに信頼を置いたからだと解釈しうる。

  (い) だから 源氏や足利氏は アマテラス公民から臣籍降下してスサノヲ側に身を置いただけだから措いておいて 信長や家康も けっきょくアマテラス天皇制を廃止しなかった。つまり すでにゆづったのだから おいそれとは返してくれとは言えない。いまもそうだ。転覆としての革命やギヨチン斬殺は起こらない。

 (12) ちなみに アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟である。

 (13) 果てさて 《もののあはれ》とは いかなるおもむきなるぞ? これからの世にありて いかがなりや?