■
ブッダという観念。屁でもない。
★ もし人が皆ブッダであるなら、誰一人心を苦しめることもないだろ
う。
☆ この主題については 再反論します。
みながそれぞれすでにブッダであると言わないので そのように凡夫と
ブッダのあいだの隔たりを持つと考えこれを意識し いつまでもさとり
を得ることはない。
――こう考えるのが 実際でしょう。
つまり われはブッダなりと捉えないからこそ:
★ そこではなんの計らいも必要なく、誰かが悪人を演じる必要もない。
誰もブッダを名乗らず、ブッダという言葉すら無くなる。
☆ といった極論を何の気遣いもなしにぶつようになるのです。
目の上のたん瘤のような あるいは 極北の輝く星のような観念として
ブッダが 人びとの意識の中につねにただよっている。
理念となって人をよくみちびくこともあるのかも知れませんが そもそ
もそのように人間の意志がみちびかれるという行為のかたちが ほめた
ものではない。
★ 現実そうはなっていないのは、衆生とブッダがいるからだろう。
☆ この《観念の階級・そのへだたりの意識》 これによって人びとが
みちびかれているという結果を生んでいる。
まぼろしの大化城の中にいる。すっぽりその繭につつまれていると も
はやそういう現実の姿すらも分からなくなる。そして そのことが ま
ぁ ましな世の中であると思い しかしそれだけではいけない 世の中
の六道輪廻の姿を批判することも忘れない。
こういった《平和な》生活をおくっている。
ブッダという観念 これは なお人びとのあたまの中に 互いをつなぐ
かのようにしてその観念の運河をかたちづくっている。