caguirofie

哲学いろいろ


こんにちは。(前回失念しました)。ご回答をありがとうございます。

★ 10番を意識すると。 / 自由を知った人と、未だ自由を知らない世
の中や人々の関係はどの様なものか?と言う事かと思います。
☆ おっしゃる通りだと思います。そして 分かりやすいです。

★ おそらく、自由を知った人々というのは、《意図せずに》不自由な
人々に自由と言うものがどう言うものかを示し諭して行く事になるので
はないでしょうか。
☆ 基本的に言って そのようだと同意します。

★ もし、皆を自由にしてやろうと言って自由を標榜するならば、世の
中やそこに住む人々への未練や固執がある事になります。意図を持って
手を差し伸べればそこにまた絆が結ばれるでしょう。
☆ ここは 分かるような分からないような。
人びとと《絆が結ばれる》かどうかは 自由という意図を持つ持たない
と直接のかかわりがありますか? 相手にもよるといった見方はないで
すか?

揚げ足取りのような疑問としては 《周りの人びとへの未練や固執が特
にはない場合でも 実際に相手として向かい合った場面では 自由な関
係を互いに打ち建てようとする》ことは あり得る・・・か?



★ もし、私は自由を知ったと言ってまさに自由に振る舞うならば、事
あるごとに出会う人々や世の中の現象に対し、自由とはこう言うもので
あると言う実例を体現する事によって示し、人々や世の中の方が能動的
に、ああ、自由とはそう言うものかと知り、自由へと向かい直すのでは
ないでしょうか。
☆ これも 基本的にそのとおりだと同意します。つまり 《意図》か
らも 自由な場合だと考えられます。そしてそれは 末尾に命題として
掲げられていました。字数制限にて 引用を割愛します。

★ 普通人々は、いかにうまく縛って好みの形を作り上げるかを自由だ
と思っていると思います。
☆ なるほど。《合意に到る》ことで 民主的な自由な関係なのだと。

いわゆる日本教は クウキ教とも呼ばれるごとく どこか・誰かなる権
威を・そしてその意向を いろんな権限や人間関係に乗せて しかしあ
くまでフンイキとして 人びとそれぞれの頭の中に 好ましき思考回路
として刷り込み 目的を達成しようとする。のでしょうね。

敵もさるもの引っ掻くもの。でしょうか。


   *

ご回答をありがとうございます。

1.
☆☆ 経験事象について《人知が及ばない》と人知で知り得た場合
☆ 経験事象が 知られていて・しかもそれが何故そうなるのかが 知り得な
いと知り得た場合です。

★ 〜〜〜
 ☆’’ 「何らか」について《人知が及ばない》と人知で判断した場合
にそれを不可知と呼ぶ。
〜〜〜
☆ 《判断しない場合》があり得ますので 定義には成らないです。

★ 「因」が経験事象でないからこそ不可知なわけで、その不可知と経験事象
(既知であるところの何らかの「果」)とが連続していたとしても特に不都合
はないだろう
☆ まづ《経験事象でない》とは何か? が問われます。

経験事象は 非経験の場と――絶対の隔たりがあるとしたそのあとでも なお
――連続していると想定するのが 連続性の仮説です。

★ 《非知・非連続》の場合に断層があるのはわかりますが
☆ 《無限》は 二で割っても三で割っても半分や三分の一にもならず 元の
ままの無限である。これが 非知の事例です。人知を超えています。

★・「因」が経験事象でなくとも、その「果」との関係性は(因ー果 という
合理的関係性において)連続である。
☆ 《経験事象でない》なら それは直観に拠って成す《想定》となります。

★・「因」が経験事象でないなら、その「果」との関係性も不連続である。
☆ 非知なる無限は 連続しているかが分からないゆえ 連続説があり得ます。
《連続していない(不連続)》ではなく どちらか分からない非連続です。


2.
★ 〜〜〜
 ☆ヤマシサ反応
 ☆ちょっと道草を喰って行こう
その〔共通性の〕意味で、
 ★A のハタラキカケのされ方と B のハタラキカケのされ方が基本的には同じ
 ような「され方」だと捉えるのが合理的ではないか
〜〜〜〜
☆ わが心なる非思考の庭では霊をつうじて神の霊と呼応すると想定するとこ
ろから ヒラメキや良心が――経験事象にも通じて――起きる。この基本は構
図としても実際としても 普遍的だと捉えます。

ただし人間――われ――には自由意志がはたらき 神からのハタラキカケをど
う受け留めどう振る舞うかは 決まっていません。

従うか拒むかの二つに一つだという意味では 形が決まっているのかも分かり
ません。

問題は ハタラキカケの受け留め方にあるのでは?