gloucestershire, uk
分かるとは 妥当性があるとこころで同意することです。
妥当性があるというのは 経験合理性に照らし合わせて間違いがないと捉えることです。
経験合理性という基準に間違いはないのかと言えば それは おのおのの主観がその認識や判断に共通であるかどうかで決まります。
主観が共同化されうるということを意味しているわけですが その主観は むしろ感性およびさらにその奥の直感(および直観)が いわゆる共通感覚にもとづき その基礎的な内容を共有し得ると考えられているのだと思われます。
そこから 経験合理性という或る種の物指しが共通に持たれます。排中律から始まります。
もしそれでもはっきりしないというならそれは すでにその共通感覚などについての根拠を問わないでよいとされている・つまり公理だと見なされているというかたちなのだと思われます。
それでは 一部の主観がはっきりと異種としてのごとく 共通ではないという場合には どうするか?
――その状態で 《分かる》ようになるまで 対話を重ねつつ互いに探究もしつつ ときを待ちます。
あるいは言いかえると 《分かる》つまり《分けられる》というのですから 《〔妥当性があると〕知っていること》と《知らないこと》とをきちんと分けて認識することがその内容です。
知ればそのぶん知らないことが減るのかどうか これは よく分かりません。けれども 知ったということにそれなりの意義があることは じゅうぶん保証されているはずです。
主観を共同化した場合には もはやその妥当性をめぐって――見落としていたと気づく重大な間違いが現われるのでない限り――争うことはないからです。
あと問題としては 《一部の主観が共通ではないという場合》の特殊な事例があります。
ひとによっては 自分から発信はするが ひとからの受信はこばむという半鎖国政策において《共通ではない》ことが起こります。
こちらから説得はするのですが 相手はこたえないという場合です。
気長にみなで知恵と力を寄せあってこの事態に応えていくことになります。
一人や二人の説得ではどうにもならない場合が起こるようです。
つまりは 分からないことが分かっても まだ部分的に分からないところが残ります。
一般性ということに根拠はほとんどないのですが 一般性を人びとは 共同主観とするようです。つまり常識ということであり この常識が分からないという人が一部にいるかも知れなくとも 共同主観は《分かっている》こととしてあつかわれます。
それでは 時代や地域によって 異なる共同主観が持たれてしまうのではないか?――そのとおりです。
しかも そのときにも おそらく《生命および人間としての存在の尊重》を――これのみでよいというかたちで―― 常識にとっての基礎の基礎として・あるいは至上命令とさえして 主観の共同化を推し進めて行く。この過程が《分かる》ということと一体になっていると考えられます。
存在とその意志の自由がとうとばれる。そしてこの自由が人びとそれぞれにとって互いに同等であるところから 平等が持たれこれも尊重されます。
自由意志による判断と自己表現 これが一人ひとりについて尊重されます。これを社会にとっては 民主制として尊重します。
これらが 《分かる》ことの保証装置となります。