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哲学いろいろ

沙羅 止まらん!自己最多タイW杯7連勝 連日の表彰台トップ

高梨が7連勝=勢藤7位、伊藤8位―W杯ジャンプ女子
時事通信 2月1日(月)1時25分配信

 【オーベルストドルフ(ドイツ)時事】
ノルディックスキーのワールドカップ(W杯)ジャンプ女子は31日、
ドイツのオーベルストドルフで個人第9戦(HS106メートル、K点95メートル)が行われ、
高梨沙羅クラレ)が102.5メートル、97メートルを飛び、
271.2点で連勝を自己最多タイの7に伸ばした。
今季9戦中8勝、W杯通算では38勝目。
 
勢藤優花(北海道メディカルスポーツ専門学校)は7位、
伊藤有希土屋ホーム)は8位、岩渕香里(松本大)は14位だった。 

非知・摂理

★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
☆ 《人智の及ばない何か》を哲学として定義しなければ話は始まりません。

1. まだ人智の及ばない何かとして《未知》なのか。つまり 経験的なチカラか。

2. あるいは 《絶対》として人智の及ばない何かか。これは 経験世界を超えた
チカラであり しかも《超えている》ということは その《絶対なる何か》が この
経験世界に介入しているかも知れない。
これを 《非知》と言います。

3. 《不可知》は 候補に挙がりません。知り得ないと証明できているゆえ その
何か《によって われは生かされている》とは 判断できないからです。つねに永遠
に判断出来ないと証明されているいからには 候補にし得ません。
そして 証明し得たもの・認識し得たことは 経験事象です。その証明がまちがって
いたなら 《未知》に分類されるだけですから。

4. 非知と未知との区別は 理論上ははっきりしていますが 手続き上はいくらか
面倒です。
5. たとえば 《生命なるチカラによって生かされている》と表現した場合。つま
り《生命》は モノとしての(その自己運動のようなハタラキとしての)――既知の
ほかの――《未知》があり そしてそうではなく モノのみなもととしての生命があ
ります。
後者は 経験事象なるモノとしての根源ではなく モノという相対世界を超えたとこ
ろの絶対なる何か・つまり《非知》としての生命です。

6. ですから 摂理には たとえば自己組織化といった経験事象としての《既知お
よび未知》の個別的なハタラキがあるとともにそれだけではなく 経験世界を超えた
《非知》としての摂理も想定され得ます。

7. 非知として説明される《絶対》としての摂理は 絶対なる生命と同じものです。
個別の摂理は 生命のハタラキとして具体的に認識される経験知の内容です。

8. 《未知》としての摂理であるなら その《人智の及ばない何か》は まだ及ば
ないにしてもいづれ及ぶと推察されているその認識にしたがって いまの命題を提示
すればよいわけです。《既知》の部分から説明するわけです。

9. 《非知》としての摂理であるなら それはもう主観の世界に入ります。しかも
いちいち主観の名づけや定義に従っていたなら 話になりませんから 人びとはその
シルシとしての言葉を持ちました。《かみ》です。摂理よりは 神のほうが一般的で
しょう。

10. この非知なる《かみ》については 《有る神か無い神かを自由にえらべる》
という主観の自由がゆるされます。人間の側から見て《有るか無いかが分からないこ
とがつねなる状態である》からです。

11. 《無い神》をえらんだ場合には 《われが生かされているのは 人智の及ば
ない何かとしての摂理によってである》としつつ その摂理とは 《無い神》のこと
だとその主観において受け取っています。そして もうそこまでです。摂理なる神に
よるわれわれの経験世界への介入は 想定しません。それで神論はおしまいとしてい
ます。

12. 《有る神》をえらんだ場合には やはり主観においてですが 摂理が神のハ
タラキとして有りこれが 経験世界に対しても介入すると思っている。

13. 有神論の人にとって 神が摂理として人間世界にハタラキを及ぼすという主
観をさらに具体的に表現すること これも自由です。と同時に その主観内容は――
摂理の具体的なあり方の説明は―― その主観の内にとどまります。非知なる何かに
ついて《有るか無いか》についても・そして 《知り得たか知り得ないか》について
も その一方だけを取ってほかの一方を棄てるわけには行かない。のだから。

14. 《知り得るか知り得ないかが知り得ない何か》について それは経験世界に
おける《有る無しや因果関係》を超えているのだから 仮りに 有る・または無いの
一方だけをえらんでも それは他の一方を捨てず排除しなければ自由です。普遍神の
シルシとして 有る神か無い神かいづれかをえらんで使えばよい。

15. 《知り得たか知り得ないか》の一方をえらぶだけなら これも普遍神の許容
範囲です。他を排除しなければ・そして主観の範囲内にとどまれば 自由にそのこと
を 表現し得ます。

16. ですから
★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
☆ なる命題は ふつうの神論の問題に帰着します。神論だけが問題なのです。神が
決まれば――自由に神の具体的な名を主観がえらべば――あとは 神による介入が有
る・および無いのいづれかによる摂理が想定されている。
《無い神》論者にあっても この普遍神のめぐみは享けているということに 想定上
成っています。このような《摂理》のことを言おうとしている命題なのですが それ
は神の定義の作業の中にふくまれている。と見られるのです。

17. 神論は 哲学として 仮説法による現実世界についての説明です。そこに生
きるわれわれそれぞれの自己了解(われがこの世界のどこに・どのように位置するか)
および自己到来(われがわれに還る)のいとなみです。