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哲学いろいろ

ヘレン・ミアーズ:『アメリカの鏡・日本』

Helen Mears (1948). Mirror for Americans: JAPAN. Houghton, Mifflin.

アメリカの鏡・日本 新版

アメリカの鏡・日本 新版




Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

△ ヰキぺ:アメリカの鏡・日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E9%8F%A1%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC

 § 3 内容
 日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。
 しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。
 開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。


 以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。
 また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。
 さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。
 実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

アメリカの鏡・日本

http://member.hot-cha.tv/~htc05528/CCP018.html

【まとめ】

ヘレン・ミアーズが本書を通して主張していることは、
(1)アメリカに不平等条約を押し付けられ、それを改正するために日本は西洋化、近代化に邁進し、欧米先進国がアジアで行ってきた侵略を学習した。先生たるべき国々が行ってきたと同じことを実施したのに、生徒である日本を非難することはできないこと。
(2)1920年代からパールハーバーにいたるまでの日米関係について、アメリカは日本人の移民制限、貿易差別という基本問題を解決しようとした形跡が全くないこと。
(3)アメリカは自分達の行為なら犯罪と思わないことを日本の行為を有罪と認定していているのは、正義ではないこと、そして満州事変以後の日本の行動を有罪とするならば、西欧民主主義国の罪も拭えないこと。「雌鵞鳥(グース)のソースは雄鵞鳥(ガンダー)のソ−スにもなる=西洋人に許されるなら、日本人にだって許される」という表現が引用されている。

ケント・ギルバート氏の連載コラムとヘレン・ミアーズ氏の「アメリカの鏡・日本」

作成日時 : 2014/11/21
http://piyopiyo-party.at.webry.info/201411/article_12.html

1894年7月29日、韓国駐在のシル米代表は次のように書いている。

 ・・・日本は思いやりの態度で韓国に接していると思う。今度こそ、韓国を中国の束縛から解放しようとしているようだ。韓国国民に平和と繁栄と文明開化をもたらすことによって、力の弱い隣国を安定した独立国にしようと考えている。こうした日本の動機は韓国の知識層である官僚の多くが歓迎している。アメリカにも異論はないと思われる。



こうした公式記録を見る限り、なぜ日本が韓国国民を「奴隷にした」として非難されるのか理解できない。もし、奴隷にしたのなら、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。日本の韓国での行動はすべて、イギリスの同盟国として「合法的に」行われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。しかも、その原則は日本がつくったものではない。欧米列強、主にイギリスが作った原則なのだ。


日本は韓国の「独立」という実にもっともな動機から、中国、そしてロシアと戦った。第2次世界大戦後の日本は、自分たちは何のために戦ったか忘れてしまったかもしれないが、日本はとにかく国際慣行を律儀に守り、それにうながされて行動したのだ。日本外務省が韓国の「対外関係と対外問題」を「管理統括」し、日本人の総督が韓国の首都で行政権限を与えられていたのはすべて、韓国政府と締結した条約に基づくものである。1907年、韓国皇帝はハーグの第2回万国平和会議(当時の平和愛好国の会議)に抗議しようとしたが、皇帝の特使は発言の機会を与えられなかった。そして皇帝は退位に追い込まれた。


1910年、日本が韓国を併合したのは、新皇帝が「請願」したからだった。パールハーバー以前は、日韓関係について語る歴史家は、日本は欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守っていた、といってほめるのだ。トリート教授によれば、日本は「・・・・一つ一つの手続きを外交的に『正しく』積み上げていた。そして、・・・・宣言ではなく条約で、最終的な併合を達成したのである」。事実、列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど「合法的」手続きを踏んでいなかった。