哲学のささやかな役目
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
いくらか自虐的で俗っぽい言い方をした場合 哲学は おんなをはらませることすら出来ない というのが 相場〔だった〕らしいです。
けっきょくのところ 哲学は 《共同自治において社会の役に立てる施策》や《医学のようにひとの命をすくう学問》やの基礎となる研究であり 思索一般としてのいとなみです。
すでに政治経済学〔の実践〕が社会を運営し 医療が人命を救い健康学〔とその実践〕を打ち立てているところでは 哲学はあまりにも迂遠すぎて《無用の長物》と見なされがちでしょうね。
もっとも何ごとも 基礎や基本は 大事です。
そのように 何よりももっとも遠回りしながらささやかにでも世の中に貢献しようとする心がまえではいるはずです。迂回生産ですね。魚を素手で取ろうとしたとき 網や銛を考案するといったそれです。
あるいは いまひとつ別の考え方も 可能であるかも知れません。
すなわち 哲学は けっきょくまだまだ直接的な社会への寄与は むつかしいわけですが それでもその思惟ないし世界認識において 少しでも歴史の中にここまでに到った現在・現状におけるわたし〔たち〕の位置関係 これが分かるならば それとして自己了解ができる。かと思われます。
たとえばそのためにわたしは:
現実の社会は 国家として二階建てであるとか
――《アマテラス公民圏(主導)‐ スサノヲ市民社会(従属)》なる二階建て構造における連関制といったように――
あるいは
この《 A - S 連関制》が けっきょく職場や学校や あろうことか 家庭内にまで そのミニアチュア版を築くに到っているのではないかとか
こういった《わが哲学》を考えて来ています。
この A - S 連関は けっきょく身の周りの現実としては
《ガミガミ電波( A )‐アース役( S )連関》
といった上下関係となって現象している。それは あたかも二階建てになっている。といった哲学を考えました。
少しでもそれによって いま・ここなるわたしが この現実に立っているわたしみづからをそこにまとわりついた夾雑物を取り除いたすがたで了解しうるようにという目的のもとにあります。
あぁ それにしてもアース役はつらいよ けっこう毛だらけ猫灰だらけ・・・ってちょっと言ってみるのも みづからが自己をすくうよすがになるかなと思ってのことです。
あとは 共生と言い共同自治と言い 社会的動物と言い 問題は 人と人との関係・またつながりにあるのでしょうね。
きらいな人については おれはアイツが嫌いだとまづはっきり認識して あとは 人間どうしの互いのとうとびのもとに 市民でありかつ公民でもあるという存在として ふつうにつき合いをおこなう。
あそこでアース役( S' )だったおれが ここではガミガミ役( A' )になっているといった姿に気づいておどろくというような現実もあるかも知れません。
市民( S )たる人は そのままお二階に上がっていなくとも ふつうに一人の公民( A )でもあります。
こういった現実存在のありさまやあり方をしっかりと捉えて 生きる。自由に生きるべく生きる。
そういった思索の成果を 互いに語り合う。
哲学ないしこの哲学カテは そういういとなみであり場であるのではないでしょうか。
宗教は ダメです。麻薬も 一時的な痛み止めとして使うことがあると言うかも知れませんが それなら 個人としてその主観の内で 神頼みをすればよいだけです。宗教は 人間をきちがいにします。とてつもなく酷いことを何でもやってしまうようになるか さもなければ まったく押し黙ったまま自分の殻に閉じこもって余計なことはまったく何もしないようになるか。いづれか一方の極端へと走らせます。
日本人は 後者です。それは かのにっくきゴータマの所為です。前者は前者で 問題ですが。