人生とは 自由であること
です。
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
わが自由意志がもはや何ものにも妨げられずに実行し得てさらにはのぞむものごとが実現するという状態 この状態にあることが 自由です。
そのためには 他人の自由をまづ実現することが いちばんの近道です。社会的動物だからです。
他人がその自由意志による自由なふるまいを実現すること このことが わたしの存在とふるまいそのものによって呼び起こされるという境地 ここに到ることが まづ見通し得るめざす地点であると思います。
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ただしこれは 何のためにという《目的》ではありません。存在理由よりは 存在そのものが先行します。存在は 動態です。
《自由》は 人間存在そのことに内在します。そのように自然本性としてのウゴキ(エネルギー)をそなえて生まれて来ています。
そしてつまり むろんこの《自由》にさからう自由をも人間は持ち合わせています。自由意志という所以です。
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幸せとは 仕合わせのことです。つまり この仕合わせという日本語ひとことにそのまま縁起共生という命題が込められています。
この思惟と行為との自由な関係錯綜が 構造的に織り成す世の中が われわれの自由の舞台です。
この自由――つまり わたしの自由およびあなたの自由またかれ・かのじょの自由――について 総じてものの見えたる境地に到るなら・つまり少しづつその到る過程と度合いをみづからのもとにみとめつつ歩むなら そのことが 仕合わせというものです。
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《自由》ということには 何かとナゾがあります。それゆえ 昔の人間は 《さとり》だとか《人格の陶冶》だとかの理念のようなものを掲げました。
漠然とした内容を目標にかかげることによっても 努力のし甲斐があったのでしょう。
(反面では おれはさとりを得たと言い放つペテン師もあとを絶たなかった。中身が誰にも分からないから そして自由は得難いものだから むしろ人びとはこれら詐欺行為のはびこる余地を持たせていた)。
(つまり 支配欲によってみづからが支配されこれを満たすために 金儲けを兼ねて 互いに群れたがる このような或る種の自由のうごめくところに生まれる宗教 この宗教について いまではインチキだということが分かっているとするならば じんるいも思えば遠くへ来たものです)。
《復活》についてひとつの トンデモ啓示
▽ (エゼキエル書 37:1-14) 〜〜〜〜〜〜〜
1:主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
2:主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
3:そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
4:そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
5:これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
6:わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
7:わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
8:わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
9:主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
10:わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。
11:主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。
12:それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。
13:わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
14: また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。