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哲学いろいろ

感性と理性

 1. 感性は よくもわるくも すなおに現われ動きたがる。ただし ふと まばたきのあいだにヒラメキのごとく 正解をちらつかせる。

 2. 理性は 感性の向かう方向のよいわるいいづれについても その能書きを垂れる。また感性の示す正解についての その説明をあたえる。

 3. どの方向に向かうか これを決めるのは 意志である。

 4. ただしこの全体の仕組みの中で 理性は 感性に従ってにしろ感性とは独自ににしろ その自分の世界をもって・という意味は 観念の城を築きあたかも意志をも説き伏せて観念の帝国をつくりおさめ 単独分立することがあるかに見える。

 5. 理性の帝国には 観念の城つまり観念体系が築かれ得る。そこでは すでに感性が抽象的なかたちで採り入れられその仮想された観念が 情念や情欲として病的に抱かれ 独自の自己運動をすることがあるかに見える。

 6. それらは 基本的に意志の責任であるが 意志が理性によって何らかのかたちですでに説き伏せられているかにも見える。

 7. このような理性の独走あるいは暴走は そのひとつの基礎としての観念体系がしっかりしたものであればあるほど 起きがちのように思われる。

 8. それは 個人のキリスト信仰が 教義として組織のヒエラルキアの中でいわゆる《キリスト教》となって持たれたときに ひどい結果をともなって現象するように思われる。ふるくは マルクス教。

 9. 《敵を愛せ》というおしえのもとに 殺し合いをたのしんでいるのかと思わざるを得ないほどである。《自分と同じように人を愛せ》と言って 人を裁いている。

 10. このような事態や情況の中で 基本はその問題が理性にあるというよりは 意志が中軸であるというところにあるのだと考えるが そのとき しばしば《へび》すなわちアクマのことが――なぜなら 理性の観念体系の中に潜み得る―― 持ち出されることがある。

 11. これは 理性の帝国が 仮想世界のことであるのと同じように まぼろしである。ヘビないしアクマは まぼろしである。

 12. 理性の暴走に対して 中軸たる意志は 感性のふと洩らす正解に耳をかたむけるべきである。理性は あらゆる回答をそれぞれが正解であると言いくるめる傾向がある。そのチカラを誇っている。理性よ おごるなかれ。