caguirofie

哲学いろいろ

Hegel:Gottesbeweis

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
○ 西羽義夫:ヘーゲルと神の存在証明
  http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/5832/1/hs02-043.pdf

 ▼ ( p.48 ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 直接知は知識全般を否定するのではなく,有限者しか認識できない範疇による媒介知を斥け,真の認識は無媒介的な「直接知」あるいは「信仰」によるものとする。
 直接知は信仰と知識を対立させ,信仰を採るというのではなく,媒介知と信仰の対立の中で直接知としての信仰を主張するのである。
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 ☆ これは 考えてみるに すでに どう言いましょうか 《われ と 神》とが〔すでに〕地続きだと言っているものと思います。だったら 無媒介としての《直接知》が成り立つという議論なのでしょうね。

 次の見方だと思われます。
 ▼ ( p.53 ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・・・「神は現在的であり臨在的であって、精神としてすべての〔人間をも含めた〕精神の内にある」と言われるのである。人間精神と神の精神が別箇のものとすれば,人間の一人であるヘーゲルが神の精神について『論理学』等の著述を書くことはできなかったであろう。
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 ☆ このような傾向は 古代人のたとえばアウグスティヌスに必ずしもつねに見い出されるものではないと思います。神とのあいだには超えられないへだたりがあると見た上で 神との近しさを願っている。つまりは けっきょく恩恵の問題であると見ている。

 このヘーゲルの《直接知》の説のような精神の世界に入って行くというのは どうなんでしょう プラトンイデア論の影響なのかどうなのか。

 つまり 出しゃばりますが わたしなら 神とわれとのつながりは――けっきょくやはり恩恵なのですが―― ヒラメキひとつに見ます。あとは 《精神世界におけるいと高き場としての直接知》うんぬんというふうに そもそも詮索しません。ヒラメキがあるかないか これのみです。

 《純粋精神 ないし 純粋意識》といった方法は 使い勝手がよくないと自覚すべきではないでしょうか。船酔いをするのが せいぜいではないかと。


 ▼ ( p.48 ) 「直接知並びに〔古い形而上学の〕媒介知も完全に一面的である」こと,「真実なものは両者の統一である」ことである。従って「直接知は〔真の〕媒介知の所産であり成果である」と把握されなければならない。
 ☆ とは言っています。
 同じく まさに《船酔い》の怖れについてはっきりと述べています。
 ▼ ( p.50 ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・・・即ち神は無規定的たらざるを得ないため,「宗教的自我自身」が直接知の「目的」,「対象」になることを意味する。
  
   * 《神》ではなく 《宗教的自我自身》が目指されることになってしまうと。
    次は 船酔いを超えて 蛸壺に閉じこもってしまう怖れのようです。

 また直接知の主観が内容なき空虚な自己同一性,「抽象的直観」の境位にあることはこの主観が「自己の特殊性」に閉じ籠り,「他との共同性」を否定することであり,直接知の哲学は「若干の個人」の「秘教的占有物」となる。
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 ▼ ( p.50 ) ・・・宗教は表象 哲学は概念的把握を境位にしている。
 ☆ ですから 《非思考の庭〔なる信仰の動態〕》としてのいまひとつ別の境地を忘れてはいませんかとなります。《表象》は 神を相手にする場合には しばしば観念の神――思考や想像の産物としての神(つまり 言葉の体系)――の世界に落ち入りがちです。

 ▼ ( p.50 ) しかし,ヘーゲルは神は優れて「精神」であるとする。「神は最高の感情ではなく,最高の思想である。この思想は表象の中に引き下げられるとしても,この表象の内実は思想の国に属する。」
 ☆ こうだとすれば それはそれで 開き直るすべはあるわけです。すなわち 神はあくまで補助線であり 補助線であるに過ぎないものだという大前提に立って 神学をかたちづくるという行き方です。
 
 つまりこの場合は もう《直接知》がどうだこうだという思わくからは離れているはずです。どこまでも補助線を引いて行くのだという経験科学に徹するといったような学的方法。


 次のくだりは 一方での《あくまで主観におけるヒラメキ∽精神の昂揚の世界における直接知の探究》と 他方での《補助線による経験科学としての神学の構築》といった両様の行き方を示しつつ まとめているように思います。
 ▼ ( p.49 ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 2.4.3 直接知が対象を知る場合,それは単に知る(wissen)のみでなく,「確実な」(gewiss)ものとして知るのである。直接知には論証の入る余地はないため,真理の基準は意識の直接性,「信仰の核心」たる確信に求められ,「私がそれを確実に知るから正しい」という論法が行われる。

 だが確実性(確信)と真理性,知と認識とは同じものではない。「知ることは何かが私に対して,私の意識の中にある主観的な仕方である」が,認識するとは「普遍的なもの」を「その特殊な規定に従い自己における連関として」知ることを意味する。
 真理には確信が伴うが,確信があるだけでは真理とは言えない。
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 《補助線》ということにかんしても 出て来ますね。
 ▼ ( p.53 ) しかし直角三角形からピュタゴラスの定理の結果にたどりつく証明そのものは,「補助線」を引く「我々」の介入で「事象の本性にあるのとは違った行程」を進み,この進行は我々の「目的」により規定されるのである。
 ☆ そのあとにも続きますが そしてこの指摘は むしろ補助線の効用の無さまたは弊害をも言っているようですが わたしたちは《我々》の確信と試行錯誤の精神とで 補助線の作り出す科学という行き方もあると主張したいと思います。
 
 そして結局は・先走るなら 《主観における確信としての直接知》と《補助線による幾何学的な冷たい間接知》とは さらに大きく人間存在の全体としては同じひとつの総合的な神学へと進められて行くものと考えたいと思います。


 神の存在証明の本論をまだ残していますが ひとまづここまでをわたしの批評としたいと思います。どう展開して行きますか。



 ▼ ( p.62 ) 「神は正に端的にあらゆるものの根拠でなければならず,従って他のものに依存してはならないからである」
 ☆ これも 《思考》が過ぎるように考えます。
 《絶対・無限》はすでに初めにそのように想定しています。想定のかぎりでは 《絶対》は絶対です。

 ですから 
 ▼ 他のものに依存してはならない
 ☆ というような当為や願望の問題ではないと言わねばなりません。


 ▼( p.62 ) 「世界の存在の空しさのみが〔我々の神への〕昂揚の紐帯であり,媒介するもの〔有限なもの〕が消滅し,それ故この媒介自身の内で媒介が止揚される」
 ☆ たしかにたとえば金持ちになって わが子が自分より先立つという不幸に遭った。そのむなしさによって 神へとわが心の顔が向きかえられたということはあるわけですが それだけに焦点をあてるのも得策ではないでしょう。
 事業および人生が成功しその絶頂にあるとき ふとナゾの何ものかと心の中で遭遇し これに感謝をささげるということだって じゅうぶんあり得ます。というよりは もともと ナゾのナゾたることについて思いをめぐらせていて 人生として成功したとき あぁ わが精神の軌跡としては あのナゾにきよらかなおそれをいだいていたこと これのおかげである。と振り返ってみるときもあるでしょう。