caguirofie

哲学いろいろ

それそのもの( idipsum )

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
これは 《物自体( Ding an sich )》とつながるか。

〔* 文脈をつまびらかにしないままに引用しますが〕だが 次に続くことをダヰデに言ってもらって すべての疑念を取り去ってもらおう。なぜなら わたしたちは 《町として建てられているエルサレム》という言葉を肉的な意味に解してはならないからである。

 
 その町はそれそのもの( idipsum )に与かっている。(ウルガタ版 詩編121:3)

 (新共同訳122:3−4
    エルサレム 都として建てられた町。
    そこに すべては結び合い
    そこに すべての部族 主の部族は上って来る。)


 それでは兄弟たち 精神の眼差しを向け 肉の靄を払って 心の目を清める者は皆 上を向いてこの《それそのもの》を見てもらいたい。


 《それそのもの》とは 何か。
 《それそのもの》という以外にどんな言い方がわたしに出来るだろうか。兄弟たち できるなら 《それそのもの》を知解しなさい。なぜなら こう言っているわたし自身も ほかのことについてなら何についても 《それそのもの》という言い方をしないからである。しかし それでも わたしたちはできるだけ意味の近い言葉を使って 《それのそのもの》を考えることができるように 弱い精神を導くように努めよう。


 《それそのもの》とは何か。
 常に同一の在り方をするもののことである。あるときはこれ あるときは別のこれといった在り方をしないもののことである。したがって 《それそのもの》とは 《在るもの( quod est )》にほかならない。


 《在るもの》とは何か。
 永遠のもののことである。というのは 絶えずああなったりこうなったりするものは 留まることがないから 在るものではないからである。もちろん全くないのではないが 最高の仕方であるのではない。そして 《在るもの》とはモーセを遣わしたときに 《わたしは在るもの》(出エジプト記3:13)と言った方にほかならない。


 これは その方のしもべが 《ご覧ください あなたはわたしを遣わします。もし民がわたしに 〈誰があなたを遣わしたのか〉と訊かれたら 何と答えましょう》(同上3:13)と尋ねたときに 《わたしは在るもの》という以外の名前を言うことを望まずに 《〈在る方がわたしをあなたたちのところへ遣わした〉とイスラエルの息子たちに答えなさい》(同上3:14)と続けて言った方にほかならない。この方が 《それそのもの》である。
 すなわち 《わたしは在るものである》 《在る方がわたしをあなたたちのところへ遣わした》〔と言われている方のことである〕。
 (アウグスティヌス詩編注解( Enarrationes in Psalmos ) 第121編 民衆への説教 林明弘訳 著作集 第20巻? 2011 pp.652-653 )