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哲学いろいろ

精神医学


 (α) ふつうの思考とその声や文字や思い
   ・たとえば 《あぁ のどが渇いた》という思いあるいは発言

 (α‐1) その思考を対象化して捉えた段階であり 捉えたそのもの(観念)
   ・たとえば《のどの渇き》という言葉を取り出し その《渇き》という概念について もはや《水が飲みたい》といった感性にかかわることとは別に 観念としてあれこれ想像力をめぐらす状態。つまりたとえば 《あぁ これは わが心が渇きをおぼえているのだ。それは 何か? たぶん 愛だ。あぁ じつはわれは 愛の渇きに囚われているのだ。》

 (α‐2) この(α‐1)なる観念のコダワリが 引いて行かない。いつもまとわりついて来る。あぁ これは ひどい! といった状態になり 休息が必要だと思った場合を言います。
 コダワリがひどくなった状態と コダワリにさらに囚われるようにしてコダワリを持つこととは 別です。

 ですから 次のように捉えるのは 《コダワリのコダワリ》であり そこにすでに勝手に自分たちの考えた《枠組み》をこしらえてしまうことだと見ます。決して(α‐3)といった状態ではないと見るわけです。

 (ω) (精神医学の考え方) 〜〜〜〜
 空耳や頭痛(α‐1 ないし α‐2)がしたなら・そしてそれらが一向に去って行かないなら これを《幻聴》だの何だのと言って 一定の症状であると規定しこれを病気扱いをする。病気扱いするという意味は 一般に《気のせい》という診断を通り越してしまうという意味です。

 しかもそれにとどまらず 特定の治療者を作り出しました。つまり病気扱いするということは その状態にある人は 患者であるという規定がなされたわけで それに相い対する特別の医者が編み出されたというわけです。
 この《医者‐患者》という二項関係は すでに閉じた枠組みを持ってしまっている。と考えます。
 つまり 人間の元気や疲れにかんする状態(α〜 α‐2)についての健康観を じつは この(ω)なる人間観を持った精神医学の見方は 離れてしまっていると考えます。離れただけではなく ふつうの健康にかんする人間観(α系列)を捨ててしまったのではないかと考えられます。
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 要しますと わたくしの考えでは α系列の健康観とωなる医学とは そのあいだに断絶があるというものです。精神医学が 勝手にその断絶をつくってしまったと見るものです。