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茅原大墓古墳

卑弥呼の「末裔の墓」 考古学マニアも知らない奈良の古墳が脚光

産経新聞 2月26日(日)15時11分配信

 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳近くにある奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳。考古学マニアの間でもあまり知られていない古墳が、邪馬台国の末路にかかわるカギを握るとして、近年の発掘で脚光を浴びている。一帯は3世紀後半の最古級の前方後円墳が多いが、茅原大墓古墳だけはなぜか4世紀末と飛び抜けて新しい。ヤマト王権は4世紀末に大阪平野に移動したため、王権発祥の地は一気に衰退したが、茅原大墓古墳は「卑弥呼の末裔(まつえい)」として最後の輝きを見せた。(小畑三秋)

 茅原大墓古墳は、箸墓古墳(全長約280メートル)の東わずか500メートルに位置。全長86メートルで、後円部は72メートルに及ぶが、前方部はわずか14メートルと極端に短く、ホタテ貝のような形から帆立貝(ほたてがい)式古墳と呼ばれる。このアンバランスな形は、大王クラスが葬られた前方後円墳よりランクが下とされる。

 「古墳の形は、茅原大墓古墳の被葬者が、すでに王権の中枢となった河内地方に及ばないことを示しているのでは」。発掘を担当した市教委の福辻淳さんはそうみる。

 箸墓古墳に代表される巨大前方後円墳の発祥地とされる桜井市など奈良盆地東南部は、3世紀後半から4世紀前半まで崇神、景行両天皇陵(いずれも天理市)など200メートル以上の巨大前方後円墳が次々と築かれたが、それ以降、大型古墳の築造はパタリと止まった。

 4世紀末以降になると、応神天皇陵(大阪府羽曳野市、全長約420メートル)のある古市(ふるいち)古墳群や、仁徳天皇陵堺市、同486メートル)などの百舌鳥(もず)古墳群に勢力は移り、「河内王朝」ともいわれた。

 首都が大阪平野に移動したなかで、ヤマト王権発祥の地の桜井市に築かれた茅原大墓古墳は、まさに「保守本流」としての最後の輝きだった。市教委によると、この地域では茅原大墓古墳以降、100メートルに迫る古墳はなくなってしまう。

 同古墳で注目されるのが、昨年発見された国内最古といわれる人物埴輪(はにわ)だ。顔は笑っているように見えるが、冑(かぶと)をかぶり盾を持つ姿は、被葬者を邪悪な霊から守ろうとする力強さを感じさせる。政権の中枢を大阪に譲っても、人物をかたどった新しい埴輪文化をいち早く取り入れようとした底力がうかがえる。

 ただし、古墳の形が前方後円墳でなく帆立貝式古墳だったことに、本流ではなくなった悲哀もうかがえる。

 それでも福辻さんは、100メートル近い古墳の規模に着目。「被葬者はたとえ主流でなくても、政権の一画に入っていたことを示すのではないか」と推測する。

 卑弥呼邪馬台国、初期ヤマト王権など日本の国家誕生の謎を秘める華々しい歴史を持つこの地域も、茅原大墓古墳を最後に、数十メートル規模の小古墳になってしまう。

 茅原大墓古墳の頂上に立つと、はるか西方には二上山の姿が浮かび上がる。その先には、古市・百舌鳥古墳群のある大阪平野が…。茅原大墓古墳の被葬者は、二上山の向こうの新たな首都に何を思っただろうか。