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哲学いろいろ

事実・真理そして真実

○ 《真理・事実・真実》 〜〜〜〜〜〜〜

 《わたし》( i )の真実( Zi ):

  ←―[考える(思考)]―→ 事実( Y )
 
  ←―[信じる(非思考)]―→ 真理( X )
 
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 《事実( Y )》は 肉眼によってや・あるいは心の目によって・または科学の目によって縦横のかたちもしくは時間過程にあるというかたちが確認される(または確認されたとみなされる)モノやコトを言います。
 ただしその事実そのもの(また そのこと)は ほんとうには人間に分からないようです。その全体を隈なく分かるということではないかも知れません。
 つまりは言いかえると 実際に人びとの間でやり取りされる事実は 事実認識( Y-Zi )のことです。
 ほとんど主観ということと違わない内容ですが その内容について人びとの認識するところとして共通性があると見なされています。

 《真理( X )》は いっさいの目によっても何によってもその存在が分からない(また 分かるか分からないかが 分からない)その領域を言います。《絶対・無限》などのことです。
 ですから これも実際には 真理についての人びとの受け止め方(受け容れ方)=( X-Zi )を指して言っています。
 人間の誰にも分からない領域ですから でも人はそれが存在するとかしないとかはっきりしたかたちで受け止めたいからでしょうか この真理については 片や《神( X )はある》というかたち(表現)で捉える場合と 片や《神はない。もしくは 無い神( nonX-Zi )がある》と表現して捉える場合とに分かれます。ここで 《 X = nonX 》です。どちらも大きく《真理( X )》という枠に入ると言えるはずです。
 真理( X )というような雲をつかむようなモノ(?)・コト(?)を持ち出しているのですが どうも人間にとっては これも実際には 《現実》であるようです。含めないわけには行かないようです。人には 《考える》ではない《非思考の場としての〈信じる〉》という言葉を用いて意思疎通しあう言語習慣があります。

 そこで 人間たる《わたし》にとっての《現実》とは こうなります。

 ○ 現実をとらえる⇒ わたしの世界観:《 X-Y-Zi 》

 これです。《わたし Zi 》によって 或る意味で千差万別でしょうし 或る意味では感覚が共通であり経験合理性も共通であるというところで 主観の共同性(コモンセンス)を持つことは出来ると考えられています。
 お答えとして 事実( Y )そのものや真理そのもの( X )は 人間には分からないとなります。
 前者には経験合理性にもとづく確認としての根拠があり 後者にはその人間の能力にかんする根拠はまったくありません。
 この事実と真理とに向き合って・またはその中に入って 人は生きているとなります。