わたしを信じる者は わたしが行なうわざをおこなうようになる。
この文章について 考えている。むずかしい。
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 イエスは言われた。
「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
アウグスティヌスが解説している。
その意味するところは ある箇所で主は《わたしを離れては あなたがたは何もできない》(15:5)と言われているが そういわれているそのかたが 弟子たち自身のわざを通して同じより大きなわざをなそうと意図されている ということを言おうとしたのである。
(ヨハネによる福音書講解説教 第72)
アウグスティヌス著作集(25)
ヨハネによる福音書講解説教 3
*つづけて次のようにも説明している。
それはこういうことであろう つまり
《わたしを信じる者はわたしより大いなるものであることはできないが しかしわたしはその時には今よりも大いなるわざを行なうであろう》
すなわち
《わたしは わたしを信じる人を通さないでわたしによってわざを行なうよりも わたしを信じる人を通してもっと大いなるわざを行なうであろう》
ということなのである。つまり それは
《わたし自身はわたしを信じる人と関わりなくわざを行ない また わたしを信じるその人を通してわたし自身がわざを行なう》
という意味である。言いかえれば
《わたしがその人と関わりなく行なうとき そのわざを行なうのはその人ではない》 しかし 《わたしがその人を通して行なうときには その人自らによって行なうのではないけれども その人によって行なわれている》
ということである。さらに
《わたしを信じる人を通して行なうほうが その人と関わりなく行なうよりもより大いなることを行なう》のであるが それはその人が微力だからではなく その人がへりくだっているからである。《しもべたちは 主人から彼らに与えられているもろもろの賜物の代わりに何を主人に返すことができようか》(詩編 116〔115〕:12)
*わたしたちは わたしたち自身も イエスのわざをおこなうということがあるのだろうか。そのとき わたしたちは そのことがわかるのだろうか。
3−1 《兄弟たち そのことはどういう意味なのであろうか》
《キリストよりも大いなるわざを行なわない者は キリストを信じている者の中に数えられるべきではないということなのであろうか。》
まず 信じることによってわたしたちはキリストのわざを行なっていると論じる。
《〈不信心な者を義とされるかたを信じる人は 働きがなくても その信仰が義と認められます>(ローマ書4・5)という使徒のことばを聞こうではないか。・・・そのことこそがキリストのわざだからである。・・・》
3−2 それでは次に《もっと大きなわざを行なうようになる》とは 何を基準として より大きいのか。
これに対して アウグスティヌスは 《ところで キリストが自分のなかに働いてくださることによって 己れの救いと義認のために共働する者は かれの働きより大きな働きをしているのだろうか。わたしは ここであえて結論を先取りしないでおこう》と言っている。
3−3 さらにそれでは 《わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう》というとき 《もっと大きなわざ》はどう位置づけられるのか。
要するに《あなたがたが願うことは何でも》とは どういう意味なのか。
(第72説教)
《わたしの名によって願うことは 何でもかなえてあげよう》(ヨハネ福音14:13)
1.《わたしの名によって》が重要だと アウグスティヌスは言う。
2.《信仰に役立たないことを わたしたちは 救い主の名によって 願い求めない》と言う。
3.パウロでさえ 《サタンの使いが彼から離れるようにと三度も祈ったけれども 彼は願い求めたものを 主からかなえてもらえなかった(コリント後書12:8)ことを知る》と言う。・・・ううーん。
4.《エサウが彼の長子相続権を失ったのは レンズ豆のためだった》(創世記25:34)というとき 逆に レンズ豆を得たのは ある意味で願いがかなったわけだが それは 主の名によってでもなければ 信仰に役立つことなのでもなかったことになる。
5.《なぜなら 救いに役立たないことを願い求められていると分かっていることをかなえないことによって かえって彼はご自分が救い主であることを示したもうからである》と。
(第73説教)
アウグスティヌス著作集(25)
ヨハネによる福音書講解説教 3