caguirofie

哲学いろいろ

 Elian #7

もくじ:2010-10-16 - caguirofie101016

註解のつづき


  なおいくらか付言すれば ここに掲げた吉本の《エリアンの手記と詩》では エリアンの憧れの少女ミリカや教師オト氏に対する作中の《うた》じたいの形は 大いに意識の排泄のうたがいがかかる。こう言い添えておかねばなるまい。
  そして この点に関して補論したい。


  一言でいって 男性であるエリアンは 女性のミリカに対するとき おおむねミリカの内なる《うた》を奪い取ったかたちで つまり言い換えれば その男性と女性とを社会的に取り替えっこしたかたちで その言葉が発出されるかっこうになっている。そしてこのように 相手の立場や情感を奪い取るがごとく互いに取り替えっこすることは わが国の社会にごく一般的であると言われる。
  このことじたいは やはり 共同主観(コモン・センス)に成り得ぬ共同観念(幻想)の情況を反映していて 結局は弾劾すべき事態であると思う。エリアンの悲劇は ここにあって ここにしかない。のであるから そのエリアンの孤独への・または《もっともわたくしなる》主観への潜入は これを摂ることによって 大きく意識の排泄を思いとどまり 《手記と詩》を活かすべきである。


  原文はもちろん日本語による詩であって 以上のような主旨に立てば この日本語の〔《うた》の〕〔構造を〕内から突き破るべく――つまり言い換えれば 共同観念的な日本語〔の構造〕を その喉元にメスを入れるべく 動きあるものとし―― この孤独の海底から ここへと立ち還って来なければならない。またそれには はじめに たとえばC.ペラン( Périn )の詩にあるように


  静寂のなかに
  イマージュの浮かぶがままに
  まかせ
  Laisse venir à toi doucement les images


ることが 先行かつ同行するはづである。これらすべては 


  O Vanité !
   Cause Première !
   空の空たること・・・


の中に 譲歩として言うものである。スサノヲイスムとは このような《うた》の流れの中にある。いやあるいは その外か。
(おわり)