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哲学いろいろ

貨幣

  貨幣の起源をめぐる個人と社会との関係について

 はじめに 隣り合いがあった。(ここですでに そもそもの初めに 個人と社会との同時成立を見ようとしています)。
 家族があったし 生活が そもそもあったわけですが 隣り合った生活が始まっていた。この共存において 経済生活が 基礎となる。
 経済生活において 仕事を協力して行なう。そしてその一方 そうではなく 一定の距離を置いて 手を差し伸べ合い 互いに有るもの無いものを融通し合うという隣り合いもあった。

 モノを融通し合う共存では それが 一方では 人間的な(人格を信頼しあうという大前提に立つ)助け合いになるであろうし 他方では モノとモノとの交換という協力にもなる。はじめには 当然のごとく 後者のばあいでも 互いに相手に信頼を置くゆえに成り立ったと考えられる。少なくとも あいつだから互いに協力し合おうという関係であったと思われる。

 こう述べてくれば もう その先は 歴史的必然の過程のごとくに 物語は決まってくるようにも思われる。
 人間生活における基礎としての経済生活にあって その共存は はじめに 人間どうしの信頼関係によって成り立っていた。(信頼が置けない場合は 共存を控えたと見ておけば 成り立つと言える。袂を分かって移住したか あるいは けんかをしたか それは いまどうでもよい)。

 信頼関係が モノの交換行為において 信用として規定されるようになる。つまり あいつはよく知っているからというのでなくとも 信用のおける者だという評判で成り立たせる。

 この信用が いづれそのうちに 経済価値として 捉えられる。よくもわるくも いわゆる合理化である。だとすれば この経済価値は モノじたいに属すると見なされてゆく。

 貨幣がどのように出現したのか よくわからないが モノが経済価値を有するとなれば この前提に立って さらに合理化が進めば 交換は 数学的な価値としての等価交換であるという考え方が 人びとの頭の中に成り立つ。ここから 貨幣は現われた。 

 貨幣がない状態と 貨幣がある状態とでは そこには命がけの飛躍があったという見方が出されている。これを さらに飛躍させれば そこには 絶対者の問題が見え隠れしている。

 はじめの人格どうしの信頼にも つまりはその前提として 人間は信頼するに値するという見方が かかわっている。人間を そしてあるいは信頼の有無・当否を超えた存在を 想定してこそ この性善説が成り立つと人びとは考えた。

 モノを価値として・しかもその数量として規定しうるということ また それによって 数量としてのモノを 互いに等価値として 認め合うということ ここにも 有限な数量を超える存在 あるいは 相い対するモノの価値(特にその対立関係)を超えた存在 これを想定するようになるし 想定してこそ 等価値という現実が成り立つと人びとは考えた。 

 もし貨幣が この超越的存在のしるしであったとするなら この貨幣の出現は 命がけの跳躍を 人びとの頭の中に起こしたということかも知れない。それは 或る意味で 神をも恐れぬ原罪行為であったかも知れないし あるいはむしろ すでにあった原罪を和(やわ)らげる人びとの知恵であったかも知れない。

・個人と社会と貨幣の歴史を 幻想のうちにたどってみました。

・(補遺)もし貨幣の発明に際して 絶対者の想定を行なわなかった場合を考えてみると その場合には 自分たちの仲間という定量 あるいは その民族社会としての枠組み これが あたかも絶対者としてのように 人びとのすべての共通項を為していたと考えられる。共通項というのが 最小公倍数のようなもので おれとおまえの仲じゃないかという場合を含めた《信頼関係》であり その仲間意識であり 貨幣を流通させうる一つの根拠であったかもしれない。一般に日本では 《公》だったのだと思う。