社会力学的コミュニケーション論
世の中には 次の二つないしは四つの人間類型がある。
(α) 非思考の場(信仰)に立つ場合
(α‐1) 有神論 (いくつかの名で呼ばれる神を抱く)
(α‐2) 無神論 (神を無いものとして抱く)
(β) (α)の亜流をいだく場合
(β‐1) 神を 観念の神(想像の産物)として抱く。
道徳ないし倫理の規範をおのれの神とする。
(β‐2) 何も抱かない。心はその動きにまかせる。
生まれて生きて死ぬ。創造と繁栄と破壊(死)の
繰り返しだというのっぺらぼう史観。
☆ 問題は 次のようだ。
(α)の――ふつうの歴史知性としての――世界観をいだく者は (β)の亜流思想をその場のこととしては やむを得ないとして その人間存在のほうを受け容れる。亜流の思想については批判する。
(β)ののっぺらぼう史観を持つ者は (α)の史観を理解し得ない。理解しようとしても し得ない。その結果 二つの対応の仕方を持つ。
(β‐2‐a ) 異人・異者扱いをする。毛唐・外道・非国民
・KYと決めつける。
(β‐2‐b ) 患者扱いをする。精神疾患を病むと見なす。
☆ いづれかの場合だと決めつけて それだから 理解が出来ないと結論づける。言いかえると (α)の人にかんしてその人が何か気の利いた思想を持っているではないかと感じた場合に それは《のっぺらぼう(顔無し)》史観に違反するではないかというわけである。
人間と社会にとって 思想は (α)のみが有効である。しかも 無効の(β)の思想は 社会力学じょう――既成事実を成すと デファクトスタンダードが働く余地が出てくるかぎりで―― 有力である。そうして現実にちからあるのは 往々にして(β)である。
さらにしかも 異者排除の理論(!?)――(β‐2‐ a, b )――が時として猛威をふるうことがある。( a )は いわゆるナショナリズム思想であり ( b )は 何と呼べばよいだろう。