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哲学いろいろ

借り手に優しい? 中世日本

 井原今朝雄(国立歴史民俗博物館教授)

 借り手に優しい? 中世日本

 ――《借金したまま》に甘く 《恥》の観念が不履行阻止-―

 (日本経済新聞 2009年4月7日 36面・文化欄)



 借りたカネは返す。利子は法律の範囲内でどこまでも増える。そんなことは当たり前と現代では思われている。もし返せなければ担保や質物は戻ってこない。しかし 中世にはまったく異なる考え方があった。利子がつくのは四百八十日間 利息の総額は元本の二倍まで 流れた質物はいつでも取り戻せる――。

 知れば知るほど驚きの中世借金事情。それが私の二十年来の研究テーマだ。発端は社会経済史の権威 寶月(ほうげつ)圭吾先生との出会いだった。私は大学を卒業後 故郷の長野県で高校教員をしていたが 一九七九年に東京大学史料編纂所に内地留学する機会に恵まれた。そして当時の教授の師である寶月先生と知り合い 翌年からはじまった長野県史通史編の編纂委員になった。

 私が一端の歴史研究者として歩み出すきっかけを作ってくれた寶月先生は八七年に亡くなった。膨大な所蔵品は東大教養学部の勝俣鎮夫教授に渡されていた。九一年に県立歴史館をつくる準備がはじまり 勝俣研究室から寶月史料を寄贈を受けることになった。寶月先生は中世の売買契約の内容などを記した売券の研究を長く続けており その元史料が原稿用紙七千枚ほどのファイルとして残されていた。

  ――質流れも戻ってくる――

 それが宝の山だった。現代で言うところの借用書なども多数含まれていた。ひとつひとつ調べ出すと 質流れになったものが後で戻ってくるような事例がいくつも出てくる。売買しても所有権が移らず 貸借との境界線があいまい。そんな事情が透けて見えてきた。

 それまで歴史学の研究者の間では債務 つまり借金の研究など成立しないと言われていた、貸し借りの関係や利子についての考え方は 古来 不変で歴史的推移などあるわけがないとみなされていたのだ。しかし先生の残した史料の数々は正反対のことを示している。がぜん興味をそそられ 研究にのめり込んだ。

 中世の史料は本来貼り継がれていたのに糊がはがれてバラバラになっていることが多い。それを虫食いの跡やシミなどを手掛かりに つきあわせて整合させていく。何百年の時を隔ててパズルを解いている気分で うまくいくとうれしくなる。

 最も注目したのが質権に関する慣習。鎌倉時代の訴訟文書を調べると 返済期限を過ぎて質が流れても 債務者の同意がなければ質物の所有権が債権者に移らないとする事例が次々に見つかる。

 どんなに時間がたっても多くは半倍(五十%)の利息を加えて払えば 質物を請け戻すことができたようだ。そうした習わしの根拠の一つに鎌倉幕府法二八七条がある。

 《たとい年月をへるといえでも(ママ) その負物を償い かの身代を請け出すの時は これを返すべし》。

 質地に永領の法なしという慣習法もあり 債務者が土地を取り戻す権利はいつまでも残り続けた。

 訴訟の勝ち負けはそのときどきの事情に応じて様々だったが そもそも裁判になるということ自体が現代の感覚からすればあり得ない。質についての中世的な考え方は意外なことに 近代まで生きていた。明治十年(1877年)に内務省が各地の慣習を調査した《全国民事慣例類集》に当たると 同様のケースが書かれている。ただ そうしたルールは社会の発展を遅らせるとして 廃止されていったらしい。

 ――利息は元本の二倍まで――

 利子についても今とは異なる仕組みがあった。現代では利率にこそ制限はあるが 返済が終わらないかぎり利子は無制限に増える。しかし古代中世では利子率は自由で制限がないが 利子の総額・上限が決められていた。稲や粟の貸し借りではたいてい 利子がつくのは最大四百八十日。かつ本稲(元本)の倍以上の利息をとってはいけないという利倍法が浸透していた。複利計算も禁止。それは 中世も変わらない。

 ――明日の経済のヒントに――

 では そんな社会においてなぜ経済がうまく回ったのか。この問題を解くカギは《恥》の観念とみられる。永正三年(1506年)のある借金の事例で 期限までに返さないことを恥と記す契約文書が《新潟県史》に残されている。現代ではともかく 中世では有効に働いたのだろう。

 色々調べてきた結論として言えることは 中世では債権者よりむしろ債務者の立ち場が重視されていたということだ。債務者が破綻すれば 債権者が困る。これは現代でも 米国で相次ぐ銀行の破綻を見れば明らか。世界的な金融危機が深まる今 明日の新しい経済のあり方を考える上での中世の仕組みは一つのヒントになるのではないだろうか。