caguirofie

哲学いろいろ

#7

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( g ) (精神の《形式》)

――わかりました。少しづつ進みたいと思います。もっとも 先人たちが体系を残してくれているとは言っても きょうのテーマについては なかなか理論立てて議論することは難しいと 実はここへ来る前から思って来たものですから おそらく断片的なものにしかならないかと思いますが。
まず初めに 基本的なことがらを述べておくならば イデアの体系においても ぼくたち人間がこの世界に生きていくかぎり 理念は 人間関係の形式と きちんとした形で つながっていなければならないだろうということ。
それは 日常の個々の接触における形式というよりも もう少し大局的な観点に立って 形式(または内容――たとえば イデアとして《自由》という内容・ゆえに互いの自由の《平等》という形式――)が捉えられることからである。そしてそのゆえに 日常の個々の場面でも つねに 有効な前提であると思うのです。
そこで次に 理念は 別の言葉で言いかえれば ぼくたちの抱く理想のことに他ならないのですから 先日も述べたように この理想に照らしてぼくたちの精神が 反省し自己を否定しながら進むというとき 実はいま問題になっている〔他者と自己との関係の〕形式というもの これが 実際には 反省され否定され〔高い次元にあらためて保持され〕て進むということになるでしょう。そしてこのときには もちろん 単におまえとおれとの二者の存在の関係というのではなく たとえば《わたし》が 何らかの目的をもって行為するという事柄にまつわった〔その過程における〕関係形式ということだと思われるのです。

  • したがって 人格の否定であるとか 存在を非難するといったこととは別だということ。ただ そのように感じられるほどの互いの批評・批判は これも 表現の自由としては 認められるように思われる。

ここでひとつ考えるのですが たとえば目的についても あるいは手段についても それぞれ吟味すべき面もあるかと思うのだけれど むしろぼくの考えとしては この目的や手段 そしてさらにそれらの背景に存在している理念などのすべてが 一つの時点に集まって表現されるところの・やはり この意思疎通の〔関係〕形式にこそ 焦点があるように思うのです。
そしてこう述べてくれば この点までは むしろナラシンハさんのこれまでの議論のほうに近づいたのではないかと思います。内容たるイデアの系列 これを 現実の行為の一時点 そこにおける行為者どうしの関係形式として 集中的に 論じようというのですから。ただ ここからが ぼくたちとしては ナラシンハさんたちとは違うという感覚を持ちます。そして実は ここからは むしろ ぼくたちの側は 非常に非理論的であるように ぼく自身 正直言って思うわけです。
つまり なぜなら 他者との関係においてその意思疎通に障害がおこるとき つまり言いかえれば 表面に現われたかたちでの互いの理念のあいだに 対立や矛盾が起きているとき その情況〔へ〕の形式を みださないで 関係が保たれていくと信じる根拠は 現実の問題としてもはや この形式に対する自覚のほかには なにもないということになるのでから。
もっともこの自覚じたいに根拠がないことはない。形式に対する自覚・信念とは とりもなおさず 形式(イデア)の究極的な実体である《善なる者》〔として誰にとっても共通の神〕の自覚・敬信にもとづいているのですから。
その意味では この前からナラシンハさんの指摘しているところの・ぼくたちの社会では 哲学と政治とが 対立していて しかも 相いたずさえて進むという点については 一つの説明が出来たかと思います。つまり イデア=形式に対する自覚という点で ローマの世界においても ナラシンハさんたちの社会と同じく 哲学と政治とは 地続きであると。
――そうだろうか。政治〔家〕は 《イデア》によって 哲学〔者〕と地続きであるだろうか。
――イデアの自覚によってなのですが この自覚ということを抜きにしても イデアをもっとも広範囲にとってみれば そうなるのだろうと思います。ナラシンハさんたちの社会の場合は イデアの内なる系列つまり精神としてのイデアを むしろ無だと説き しかしながら 結局 このイデアの内容としての無の自覚によって 哲学と政治とが 地続きであるという 現実または慣習道徳が 優勢なのではないか。
――経験的には あたっているように思われるのだが。ただ この自覚の強制へは・・・つまり あの形式としてのイデアへの無意識が 無駄をつくると言いながら おかしなことを言うことになるのだが この内容としてのイデアの無の自覚の強制へは・・・行かないとは思われる。なぜなら それを 無と言っているのだから。
――しかし この・形式に対する自覚ということで ぼくたちの側でも 善悪の基準という点が 説明されたかどうか 依然 心許無いのです。ただ かと言って 個々の具体的な行為において その形式にかんして それぞれただ客観的に善悪の基準をうんぬんするといったことも ここは その場であるとは思いません。いや むしろ 議論の対象にはならないと やはり思います。
しかし ただ ひとつだけ言えることは ・・・その点にかんしてナラシンハさんの側からも意見を述べて欲しいと思われることとしても・・・それは ここまで議論が進んだところで 正面から 一般的に言って 《悪とは何か》という問いを投げて それについて考察をすすめたいということです。
――というのは?
――ええ。この問いに対して 最初に ぼく自身の一つのこたえを出したいと思うのです。つまり 今までの議論から ひとことで言って《悪とは この〈形式〉の無いことである》ということです。
その点 ナラシンハさんは先ほど 形式に対して 無意識であると触れられました。同じことかどうか 実際にはこれからお聞きしたいと思うのですが ぼくたちの側から言えば そのことは すなわち《イデアの無》もしくは《無形式》ということになると思うのです。それが 《悪》の内容であると。
――ボエティウス君は 今日は いやに議論が早く進むようなのだね。
しかし 《無形式》と言っても 先ほども述べたように 現実に言葉をとおして意思疎通がおこなわれているのだから 動物の行動でないかぎり そこには何らかの《形式》が存在しているように思われる。
かと言って また わたしが言ったように 《形式》に対して あいまいであり 無意識であることが それでは《悪》だということになるかどうかは・・・。
ちょっと待ってくれないか。《無形式が悪》ということは 《形式》とはイデアであり イデアとは善であるなら それは 《善の無いものが悪》という同語反復の誤りを犯してはいないだろうか。
――いいえ。《悪とは無形式》ということで ぼくたちの側で一般に説かれるところの《悪とは 善(すなわちイデア)に欠けたもの》という定義を言い換えたにすぎません。
――ううん。そうすると やはり《形式》つまり《イデア》の問題であるというわけだね。
わたしは どうもよくわからないのだが たとえば こういう点は どうなのだろうか。たとえば ひとりの人 A にとって つまりかれの理想あるいは理念にとって すなわちその人 A の形式に対して 他の人 B の《形式の無さ》が 障害となるというのではなく 他の人 B のその個々の時点において存在する《形式》が 障害となるばあいが考えられる。その場合 Aにとって Bのこの《形式》は ひとつの《悪》ではないだろうか。少なくとも Aの理想つまり善が 阻まれたとする限りで。
あるいは逆に こうも考えられる。AとBとの関係において Bの何らかの行為・そのときの形式によって Aの理想の一部分が実現されたとする。Aは それによって満足を得たとする。そうすると そのBの《形式》は Aにとって《善》であるということになるが 果たして無条件でただちに そう言っていいかどうかという疑問が おきあがる。
――それは そうかもしれません。先ほどの《悪》の定義は あくまで原則であり 具体的な個々の場面で そのまま直接に通用させるのではなく 間接的に やはり一つの判断基準となっているであろうと見るゆえ それは つねに 具体的にも イデアが現実的であるということになる。 
――そうすると 先日から議論してきた具体的な善悪の基準という問題に やっとここで その入り口に立ったというわけだ。どうも そうであるらしい。
つまり 今の第一の例において・・・(つづく→2006-03-30 - caguirofie060330)