caguirofie

哲学いろいろ

#4

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§6 永遠・ランボー・マラキ書

カトリック作家は決して聖人や詩人ではない。聖人や詩人の目的は ひたすらに神をながめ頌め歌うことにある。けれども カトリック作家は 作家である以上何よりも人間を凝視するのが義務であり この人間凝視の義務を放擲する事はゆるされない。
(既出§2。〈カトリック作家の問題〉)

ところが ここで 《カトリック作家の問題》の問題は 聖人や詩人をも凝視することをふくむことでなければならないでしょう。
言いかえると あの二段構え――上の文章では 《小説家・散文家》と《詩人》との二段――が 実際には はっきりと区別された二つの事柄に分かれていないということでなければならないはずです。義務をつらぬくためです。
時間的な存在たる人間を凝視するのが 散文家の仕事であり なおかつかれは 時間を超えた永遠を問い求めこれを表現しようとする詩人の人間を見つめることを その同じ仕事とするということだと思います。
二つの領域に分かれているけれども 二段構えでは ほんとうにはなく 《どうでもよい事柄》を凝視しつつ その同じ姿勢において《どうでもよいのではないもの》を観想するということになるでしょう。
詩人であるA.ランボーは まさに《永遠》と題した作品でこう述べています。

永遠 L'Eternité

見つけたぞ
何を?――永遠さ
太陽によって航(ゆ)く
海のことだよ
だから
待ち望んでいた魂たち
あなたがたは
何もない夜が
火のなかの昼に
仕える声を聞きたまえ
人間の苦しみから
あなたがたが湧き起こり
その声によって跳躍するさまを
見たまえ
繻子の消し炭の中から
あなたがたが立ち
あの愛のつづくさまを
明日の日が昇るまで
耐える必要もなく
むしろ苦しみが確固として
学問を打ち立ててゆく
そうさ
見つかったのさ
太陽によって
航く海のことだよ


L'ETERNITE mai 1872 Arthur RIMBAUD

ELLE est retrouvée.
Qois? ――L'Eternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.


Ame sentinelle,
Murmurons l'aveu
De la nuit si nulle
Et du jour en feu.


Des humains suffrages,
Des communs élans
Là tu te dégages
Et voles selon.


Puisque de vous seules,
Braises de satin,
Le Devoir s'exhale.
Sans qu'on dise: enfin.


Là pas d'espérance,
Nul orietur.
Science avec patience,
Le supplice est sûr.


Elle est retrouvée.
Qois?―― L'Eternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.

わたしは すでにこの訳詩の作業の中で 詩人たるランボーの人柄を見つめた恰好です。その点 自由にほんやくしているのですが その根拠は 聖書にあります。つまりこのときには 聖書なら聖書という詩人の原典に逃れなければならない恰好でもあります。
次に引用する旧約聖書《マラキ書》の一節との符合は ランボー詩篇の校註者であるベルナール Suzanne BERNARD によるものです。

万軍の主は言われる
見よ 炉のように燃える日が来る。
その時すべて高ぶる者と
悪を行なう者とは わらのようになる。
その来る日は かれらを焼き尽くして
根も枝も残さない。
しかしわが名をおそれるあなたがたには
義の太陽が昇り
その翼には 癒すちからを備えている。
あなたがたは牛舎から出る子牛のように
外に出て とびはねる。
また あなた方は悪人を踏みつけ
わたしが事を行なう日に
かれらはあなたがたの足の裏の下にあって
灰のようになると 万軍の主は言われる。
(マラキ書4:1−3(または 3:19−21))

したがって ランボーは こううたったのです。《炉のように燃える日 le jour brûlant comme une fournaise 》が 《太陽によって航く海 la mer allée / Avec le soleil 》として すでに来た( voici que vient le jour )・見つかった( Elle est retrouvée. )のだと。
《何もない夜 la nuit si nulle 》=《すべて高ぶる者と / 悪を行なう者と tous les arrogants / et tous ceux qui font le mal 》が 《藁 une paille 》となって《焼き尽くされ〔 le jour qui vient 〕 les consumera 》 あなたがたは《火のなかの昼に仕える声 l'aveu 〔 de la nuit si nulle / Et 〕du jour en feu 》を聞く。《わが名をおそれ》《待ち望んでいた魂たち Ame sentinelle 》には(pour vous qui craignez mon nom ) 《その翼には癒すちからを備える 義の太陽が昇り se lèvera / le soleil de jusitice / ayant dans ses ailes la guérison 》 《明日の日が昇るまで / 耐える必要もなく  Là pas d'espérance, / Nul orietur 》《あの愛がつづく Le Devoir s'exhale / Sans qu'on dise: enfin 》のです。
《あなたがたは牛舎から出る子牛のように/ 外にでてとびはねる et vous sortirez en bondissant / comme des veaux à l'engrais 》。《その声 l'aveu 》によって跳躍するさまを / 見たまえ  Des communs élans / Là tu te dégages / Et voles selon 》。《かれらは・・・灰のようになる ils seront de la cendre 》その《繻子の消し炭の中から de ・・・/ Braises de satin 》あなたがたは湧き起こり 《悪人(虚偽のウソ)を踏みつける vous piétinerez les méchants 》。
これが それを《将来すべきものとして臨むのが正しい》復活のことであり 《わたしが事を行なう日 le jour où j'agirai 》ではないでしょうか。このために わたしたちは虚偽を内的に棄てる。むしろわたしたちが 焼き尽くされる。むしろその《繻子の消し炭の中からのみ 作家の人間凝視の義務が現われる de vous seules, / Braises de satin,/ Le Devoir s'exhale 》。遠藤さん そうではないでしょうか。
だが キリストは この世に属していないことを わたしたちは 知っていないのではないのです。けれども そのキリストが じっさいかれの国であるこの世にやって来たとわたしたちは聞いた。

Car voici que vient le jour,
brûlant comme une fournaise,
et seront tous les arrogants,
et tous ceux qui font le mal, une paille:
le jour qui vient les consumera――
a dit Iahvé des armées――
il ne leur laissera ni racine ni rameau.

Mais pour vous qui craignez mon nom se lèvera
le soleil de justice,
ayant dans ses ailes la guérison,
et vous sortirez en bondissant
comme des veaux à l'engrais.
Et vous piétinerez les méchants,
car ils seront de la cendre
sous la plante de vos pieds,
au jour où j'agirai――
a dit Iahvé des armées.
( MALACHIE Ⅲ:19−21)

§7 永遠をめぐる矛盾の構造

《義の太陽 sol justitiae 》=愛の火 これにわたしたちが焼き尽くされると言っても じっさいわれわれは ウソを言わないわけではない。まだ この世では虚言を語りうる。従って わたしたち自身 この世で義であるわけではない。つまり《永遠の生命》であることはない。だから この世で生きるわたしたちは 言わばなお《海 la mer 》であり あるいは この世ということが この海である。けれどもランボーがうたったのには 《その日》には・つまり《永遠が見つかった日》には 《太陽によって航く海》となるというのでした。
ここには 次のことが 構造的に あたかも論理的には矛盾をはらみつつ ふくまれていると考えられます。すなわち 復活はこの世に属していない と同時に これを将来すべきものとして臨むとき キリストの肢体の――それはわたしたちの肢体の――復活がすでに到来しているということ。少なくとも ランボーの詩においてそうである。しかも遠藤も 《同伴者イエスの発見》が《キリストが復活したっていうことです》と語ったのをわたしたちは知っている。
わたしたちは今このような人間の歴史に立ちあっています。人間がこのような矛盾をはらんだ認識を――それは どうでもよい事柄とどうでもよいのではない事柄とのあいだにあって・両者の関係として持たれる認識を―― 言葉に出して表現したという歴史的現実に立ちあっています。

  • 社会科学的に言っても 《民主制》は 個人の自由と社会の公益との間で 矛盾が生じることと考えられます。

別様に述べます。
《マラキ書》は前章に引用した節につづけてこう記します。

見よ 主の大いなる恐るべき日が来る前に
わたしは預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
かれは父の心をその子どもたちに向けさせ
子どもたちの心を父に向けさせる。
これはわたしが来て のろいをもって
この国を撃つことがないようにするためである。
(マラキ書 4:5−6)

したがって この旧約聖書の《預言者エリヤ》は 新約聖書が語るところによると キリスト・イエスとして来た すでに遣わされたというのですから 《この世に属していないもの・どうでもよいのではないもの》が 《この世のどうでもよい事柄の国》にすでに存在するという構造的な矛盾をはらんで わたしたちの現実があるという話にまでなる。
このように人間の歴史が あらたに始まっていたということになる。――わたしは ことの真偽を問わないとすると そうすると 遠藤さんの議論を検討してみるなら どうやら問題は このような視点にかかわって落ち着くようではある。そう思われます。
さらに言いかえると 遠藤は 信仰の心理的な裏付けを 人間凝視の姿勢で 作品にあらわすという形を採りつつ 心理的な世界を超えた問題を あたかも当然のごとく扱っているということは疑いないことになります。だから悪いというわけではないのですが その点をまずはっきりさせていなければならないと考えます。永遠凝視の問題を じつは 扱っている。ですから そのあたりの事柄をも しっかり解きほぐして 問題点を検討していかなければならないという改めての出発点だと思います。
ランボーの詩にもう少し触れておきます。かれの場合 たしかにこの《マラキ書》や新約聖書の言うとおりに《永遠》を問い求めているのであって それは たとえばマラキ書が 《わたしが来て のろいをもって この国を撃つことのないようにするためである》と記すとおり かれは 《繻子の消し炭の中から 人びとの各自の仕事が始まる》と述べたのであって それは次のことを意味するからです。わたしたちは確かに焼き尽くされるが 《サテンの織物の消し炭として残る》と言うのであって これが実際には 人間凝視の結果えられた一個の認識なのではないかということです。
《 Science avec patience 》つまり《むしろ苦しみが確固として / 学問が打ち立てられてゆく》と言ったのであって 《海》を離れてひとり心理的に人間の想像力によって飛翔してゆくのではなく むしろこの世の海にとどまっているというのですから これが人間凝視の一個の成果なのであり その言葉は確かにどうでもよい・ウソを許容しうるところの言葉であるにほかならず ただ それにもかかわらず これをかれは自分のとらえた真実とした――有限な真実だが真実とした――というにすぎないからです。
このことはむしろ 人間的に理性的に争わなければならない。また そのつてで言うと 《同伴者イエス》という一個の像は その思惟そのものとして どうでもよい事柄なのです。こう言わなければならないでしょう。
さらに詳細な詩の分析としては。次の一点は明らかにしなければならないはずです。
ランボーが語るところによると 《太陽によって航く海のことさ》と言うとき これを 《何もない夜が 火のなかの昼に仕える〔その告白〕 l'aveu de la nuit si nulle et du jour en feu 》つまり《われわれの中の悪が 義に臣下となる誓いをなす》と表現している点についてです。難しいことを言えば 悪は《何もない》夜なのですから それが何か臣下の礼をとるということにならない。言いかえると 《義の太陽が昇るとき》 消し炭の中から繻子の織り物としてのようにむしろわれわれがよみがえったなら それは 支配する者と服従する者との区別があると言うのではなく 太陽の光を与える者と与えられる者との一致があるということだと考えます。ランボーの真意がそれであり 表現としてはいささか曖昧である。
つまりわたしとしては そう解釈して そこまで減らず口をたたいておくことが むしろランボーという人間を凝視することなのだと思うわけです。マラキ書が《あなたがたは悪人を踏みつけ》るというふうに 具体的に形態的に表現していることも この《義と悪との支配・服従の関係》を言うことに真意があるのではなく もはやこのときには  《悪が・虚偽のウソが その根も枝も残されずに 焼き尽される そうして確かにそのとおりの〈何もない〉ようになる》 このことを言外に示そうとしている。
ただ ところが 《かれら悪人はあなたがたの足の裏の下にあって 灰のようになる》と表現されるほうが どうでもよい心理的な人間の言葉にとって より一層ふさわしいというほどのことなのです。これは 人間凝視(その務め 《Le Devoir》)の問題です。このときわたしたちは 《同伴者イエスを発見》しているかどうか それは知らないのです。言えることは 《キリスト・イエスは 人間の永遠の同伴者であるのではない》ということなのです。《知らない》と述べたのは 心理的な裏付けそのものとしての像を愛するのではないということ。つまりこの心理的な想像のかたちそのものへの服従は これを拒否するということです。
そしてそれは ランボーの詩の中の言葉(文字)そのものに対しても 事は同じということになります。この人間凝視の愛・なんなら信仰は この世で終わりなく( Sans qu'on dise :enfin )つづくのです。《なんなら信仰》とわたしが言ったのは 《義・義の太陽・その光・つまり復活つまり肉における復活》そのものには この見ていないもののの信は もはやないからです。そこではわづかに かつてわたしはこれこれを信仰していたという記憶が 言いかえると 見ていないものの信があったのだなという残骸として残るのみと言われうるからです。
これは 論理的にそういうことになるでしょう。

  • ちなみに唯物論者は すでに ただいまの時点で この《義》の状態を あたかもかれらの信仰として 想定していると思われます。これは 科学的な人間凝視の姿勢ではないかも知れません。《義人同盟》といった。

要するに 復活はこの世に属していない。ただし この復活をもしわたしたちが清らかな心でこの地であえぎ求めているとするなら そのキリストは すでに二千年前の昔にこの世に肉となって現われたと考えられたのです。この構造的な矛盾が 歴史的に 現代人にとって いま現実であると思います。

  • ふつうの唯物論者とか経験科学者も たとい神とかキリストとか言わずとも この矛盾の構造を 歴史過程として けっきょく同じく共に 生きているという点では 同意されると考えています。

したがっていま 次のことが両方とも 人間の有限な真実となるでしょう。この矛盾は無であり世の中はただ成るようになるだけさ――永遠を見つけたって? そんなバカな――と言って飲めや歌えやとはしゃぐことは 人間の自由であると同時に この矛盾の構造の中で《同伴者イエス》《無力なイエス》を自己の信仰の真実の裏付けとすることも同じく自由であるということが。
また第三として これら両方ともを突き抜けて 観想を得る道も わたしたちの心の中にあります。
(つづく→2005-11-07 - caguirofie051107)