caguirofie

哲学いろいろ

#1

――遠藤周作論ノート――

もくじ

カトリック作家の問題》*1の問題

§1 はじめに:本日
§2 はじめにの補論:本日
§3 《おバカさん (中公文庫)》:2005-11-04 - caguirofie051104
§4 《月光のドミナ (新潮文庫 え 1-4)》:2005-11-05 - caguirofie051105
§5 〈悪魔についてのノート〉:2005-11-05 - caguirofie051105
§6 永遠・ランボー・マラキ書:2005-11-06 - caguirofie051106
§7 永遠をめぐる矛盾の構造:2005-11-06 - caguirofie051106
§8 《わたしが棄てた女 (講談社文庫)》:2005-11-07 - caguirofie051107
§9 《愛のおのづから起こるまでは》:2005-11-07 - caguirofie051107
§10 森田ミツは永遠の同伴者か:2005-11-08 - caguirofie051108
§11 《キリストの誕生 (新潮文庫)》:2005-11-08 - caguirofie051108
§12 《私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)》:2005-11-09 - caguirofie051109
§13 《吾が顔を見る能はじ》:2005-11-09 - caguirofie051109

悪霊の午後》論ノート

§14 悪霊の午後:2005-11-10 - caguirofie051110
§15 悪霊の夜:2005-11-10 - caguirofie051110

沈黙 (新潮文庫)》および《》論ノート

§16 《沈黙》に非ず :2005-11-11 - caguirofie051111
§17 《沈黙》を超えて:2005-11-11 - caguirofie051111
§18 《日本と申す泥沼》(?):2005-11-12 - caguirofie051112
§19 動態 動態 動態:2005-11-12 - caguirofie051112
§20 《転ぶ・転ばぬ》に関係なく:2005-11-13 - caguirofie051113
§21 《》:2005-11-13 - caguirofie051113

付録 史観の断片

§22 《想像をとおして》と《想像において》と:2005-11-14 - caguirofie051114
§23 原史・前史・後史・本史(!?):2005-11-14 - caguirofie051114
§24 敬語という想像世界をとおして:2005-11-15 - caguirofie051115
§25 カトリック作家の説く愛:2005-11-16 - caguirofie051116
§26 《人を愛させよ》:2005-11-16 - caguirofie051116

補論 曽野綾子論を交えて

§27 あくまでも復活の問題:2005-11-17 - caguirofie051117
§28 《おんぶお化け》:2005-11-17 - caguirofie051117
§29 信仰の話は強制か:2005-11-18 - caguirofie051118
§30 いささかいら立ちつつ:2005-11-19 - caguirofie051119
§31 《白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)》:2005-11-20 - caguirofie051120
§32 伝道者たち:2005-11-21 - caguirofie051121
§33 繻子の倫理が焼き尽くされて:2005-11-22 - caguirofie051122

付論 悪霊のもんだい

§34 河合隼雄昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)》への書評:2005-11-23 - caguirofie051123
§35 河合隼雄論ノート補遺:2005-11-24 - caguirofie051124
§36 悪魔論補足:2005-11-25 - caguirofie051125
§37 存在(本質)について――哲学ふうに――:2005-11-26 - caguirofie051126
§38 場違いの断章:2005-11-27 - caguirofie051127

カトリック作家の問題》の問題

§1 はじめに

遠藤周作に対しては――むろんその表現された作品に対してですが―― すでに批判は行なわれており ここでなぜ かれを問題とするか これについて先ず明らかにしなければならないかも知れません。ですが ここでは この手続きを省こうと思います。ひとことで言っておくなら これまでの批判は すでに本質的なものであったとしても いまだ密教的なかたちのそれであった。したがって これをむしろ十全に言葉を尽くして表わし しかるべく顕教的なものとしなければならない こう思われたのが 基本的な理由です。

作品

死海のほとり (新潮文庫)

死海のほとり (新潮文庫)

に対する批評には まず次のようなものがあります。

これは名作《沈黙 (新潮文庫)》の姉妹編である。
遠藤氏の宗教小説には底に一種独自の敗北感がある。それは《沈黙 (新潮文庫)》のキチジローが代表しているムードであり 卑小を装いながら 実はそれが信仰の心理的裏付けをしているのである。この作品では それが《私》やキリストまで支配している。作者は数次のイスラエル旅行でその地の風土色を親しく身につけ それでキリストの受難と それにナチのユダヤ人迫害とわが戦時下の弾圧を重ね写しながら ここに生々しく描いている。
河上徹太郎――《沈黙 (新潮文庫)》の本の箱の裏に再録されている。次も同じく。)

遠藤は処女作以来 胸に抱いた一つのテーマをじっと温めつづけてきた作家である。その一つのテーマとは 私にとってイエス・キリストとは何か と問うことだ。それは思念の問題ではなく 魂の問題なのだから 解答が理として当然出てくるというわけには行かない。氏は《海と毒薬 (新潮文庫)》から《沈黙 (新潮文庫)》を経て《死海のほとり (新潮文庫)》と 絶えずそのことを問いつづけ その解答にもようやくひとすじの光がさして来た。氏はそこで 女が男の愛を求めるように 人間を自分の羽交いの下に抱きしめるイエスの《愛》の姿を浮かび上がらせる。すべての人の生と死の苦痛を一身に引き受けて十字架に就いた 最も辛く長いイエスの身の痛みを 氏は死海のほとりの荒野で もう一度確かめるために この作品を書いた。
山本健吉

わたしたちはここで 《〔人間の〕敗北感の装いが 信仰の心理的裏付けをする》ことは 《イエスの受難の苦しみを 肉において確かめる》ことであると考える。遠藤がそうであるとみづから言うところの《カトリック作家》にとって いや要するにキリスト者にとって もし神の国の外交官(使徒パウロが《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ 1:21 )と言うのであるならば 上のように評された問題は 事の本質に迫っているものであると考える。
しかしながらわたしは ここで 同時に おなじその内容が どうでもよい事柄であるとも考える。つまり《敗北感 / 卑小の装い / 信仰の心理的裏付け / 肉におけるイエスの苦しみの確認》等々というこの問題の内容は カトリック作家ないしキリスト者またはパウロにとって どうでもよい事柄なのであると考えるし またそう言わなければならないと考える。
この後者の反面の内容は――それは批判であるのだが―― いまだ含みとなっていて 人びとのあいだに 密教的にしか持たれていないという捉え方をしているものである。もしくは 明確な顕教的なものとしないほうが正しいというふうに 人びとは捉えているのではないだろうか。つまり 薄々は気がついているといった情況ではないだろうか。
ここに提起した批判点を述べていきたいと考えています。

《どうでもよい》ということに 誤解があってはならない。信仰の裏付けを《心理的に》おこなう これがどうでもよいということなのです。カトリック作家は キリストを生きることが問題であるけれども イエスの肉の苦しみを確認することが 問題なのではない。また ここでも 実際 誤解があってはならないのであって 人びとはキリストを生きるとき たしかに肉におけるイエスの苦しみをあたかも分かち合うという過程をとおることは 必然である。また キリスト――かれは 肉に属していない――は イエスとして人間の肉の苦しみを受け取ったゆえ かれ自身(キリストであること)を人びとに告知した。しかしながら かれはわれわれにこの肉の苦しみを受けよと言ったであろうか。これを分かち合えと言ったであろうか。

  • 自分の十字架を背負えとは言った(マタイ 10:38) 。あるいは 十字架上のかれを飲みまつれというふうに語ると読む。これらは《自分の〔十字架〕》という話であって また 苦しむために苦しみを受けよというものではない。
  • おおきな課題である。いまは 《事後的な裏付け》あるいは《心理的な確認》と受け取られた事柄について もしそうだとしたなら 疑義が生じるという問題だとします。ちなみに評者・河上徹太郎は その《卑小の装いなる信仰の心理的な裏付けが 主人公の〈私〉やキリストまで支配している》と見ている。

これは どうでもよいことなのである。どちらでもよいことなのである。

  • だから どうでもよいということは この小さなこと――《事後的かつ心理的な確認》ということ――を 無視せよ・無視すべきだということは意味しない。なぜなら キリストを生きるとは この小さなことを生きよ この小さなことによって人びとは人生を送れということではなく これより大きなものによって――小さなことを把握しないでは より大きなものを人びとは問い求めようとはしないゆえ――生きよというのであるから そういうように根拠を明らかにして言うときには 小さなもの(=心理)はどうでもよいと言わなければならない。

そこで カトリック作家いや 一般に作家は しかし このどうでもよい小さなものごとに関して 文学・芸術作品として 描くのだ またそれ以外に方法はない と遠藤は言うかも知れない。じっさいわたしたちは 芸術にかんして 正当にもそう言うことができる。それでは わたしたちの物言いは 不当なものであったろうか。この信仰の《心理的な》裏付け以外のことはすべきでないし できるものではない この限界を知らないならそれは不当な批判を寄せるものであると言うべきだろうか。ここで《〈カトリック作家の問題〉の問題》が生じると思うのである。むしろいまのこの限界問題を認めたうえで なおかつ正当にもこう問うことができると考えた。この問いは どうでもよい事柄に属すとは考えられなかった。

  • 譲歩すべきとすれば こうである。《心理的な裏付け》は一般に作家の問題であるが まだカトリック作家の問題ではないのではないかと。

さらになお 遠藤は次のように言うことができる。それは このいま問うた《どうでもよい事柄を どうでもよい物事をとおして 問い求めようとしているのだ》から 問題はないと。そして遠藤の次の発言を引合いに出すことができる。

〔《死海のほとり (新潮文庫)》の主人公の《私》の場合は 《戸田》とは全然違う。聖書学者でも何でもない。《私》は同伴者イエスというのを 最終的に多少は感じて飛行機に乗るわけです。〕
同伴者イエスっていうのは わたくしは《沈黙 (新潮文庫)》以来 最終的な決め手になるもんだって感じがしたんです。・・・同伴者イエスの発見ということは 結局イエスが復活したっていうことです。その確信はあるけど ヴェールを通して見つけたわけです。文中の《私は何度もあなたを棄てようとしたのに あなたは私を棄てなかった》というのは 《沈黙》ではかすかな声で出してたのが 今度は多少大きな声で主張できるようになってきた ということなんです。
・・・
手ばかり握って奇蹟は行なえないというのは 《同伴者》の条件ですよね。イエスはいつもいつも 神はわれを見棄てたもう と嘆いておられたと思いますよ。しかし 世の終わりまでいつもこの人たちと一緒にいたいという気持ちはあった。それが彼の十字架の死で 可能になった。つまり 人間の永遠の同伴者になったわけで そこをわたくしは声を大きくして言いたいわけです。それでなかったら 無力のイエスを書いた意味がないんです。
遠藤周作江藤淳との対話〈《死海のほとり (新潮文庫)》をめぐって〉)

つまり 《無力であったイエス〔の肉における苦しみ・その心理的な裏付け〕》は 小さなどうでもよい事柄であり また小説の描く事柄であり しかも このイエスを 《永遠の同伴者》として《発見》することは――それが キリストの像(その一つの表現)だと言うのであるから―― 上の小説の限界を超えた大きなどうでもよいのではない事柄に属しているはずであると。また じっさい遠藤はその後 《キリストの誕生 (新潮文庫)》という作品で――つまり対談形式やエッセイなどの形式でではなく―― そう表現している。したがって遠藤じしんも われわれの言うこの《〈カトリック作家の問題〉の問題》に直面しているわけである。言いかえると 《どうでもよいのではない事柄を ただどうでもよい物事をとおしてばかりではなく じっさい直接に 問い求めようとしている》。
したがって これに対して異を唱えるわたしたちの結論は 一つに このような二段構えは 基本的な誤謬なのではないか また 同じことで かれキリストを《永遠の同伴者》だと言ってしまうことは あやまりがあるのではないか このようになる。
《キリストを生きること》と《キリストをえがくこと》とは まったく別の二つの事柄である。この二段構えは 二段構えとして 上の両者を問い求め表現しようとしているということにはならない。決してそういうことにはならないであろうというのが ここでの焦点になります。

§2 はじめにの補論

遠藤周作は――いわゆる一個の人間としてであるか 小説家としてであるか それはわからないが―― 小説の対象とすべき人間の小さなどうでもよい事柄を じつはすでに超えて どうでもよいのではない領域に一歩 踏み込んでいる。イエスにあって その肉の苦しみは どうでもよい・経験偶然の出来事であり その後の者にとって この受難の痛みを心理的に確認することは どちらでもよい事柄に属している。けれども キリスト・イエスを 《人間の永遠の同伴者》として規定した・もしくは描こうとしたことは そうであるからには どうでもよいのではない領域に立って すでに語っている。たとえば 《永遠の》とか《復活――しかも 肉における復活――》とかは この世の人間には じっさい属していないのですから。
十字架上のであるにせよ ないにせよ 死ということは この人間に属す事柄です。しかも《十字架上の死で可能になった》と言うところの かつ それが《イエスが復活したっていうこと》だと言うところの《同伴者イエス》(その発見)は この世の人間に属していない事柄を扱っています。
したがって逆に言いかえると すでに遠藤は われわれが先にとらえたところとは異なって 《どうでもよい事柄とどうでもよいのではない事柄》との二段構えではないかたちで 表現しているとも言わなければならない。そもそも 二段構えであるとか人間にとって現世と非現世との二領域があるとかいったその区別そのものの考え方にはなじまないかたちで 表現をおこなっている。ことになる。
さらに言いかえると このことは 小説の作品の限界といった事柄は 単に一つの方便であるにすぎないということを わたしたちに確認させるにすぎないのかも知れない。
ところが 遠藤の議論には きわめて曖昧な主張が残るとわれわれは考える。この点に関して 遠藤の言うところをもう少し聞いてみよう。長くなるが――

カトリック者は本来東洋的な神々の受身の世界を拒絶するものであること 神でもない 天使でもない自分の存在条件を自覚しながら 死や罪や悪魔とたえず闘っていく存在だという事を少し考えてみました。
そこで こういういい方も許されます。人間は神をえらぶか 捨てるかの自由をもっている存在である。この人間の自由を文学に賭けるのが カトリック文学です。つまりカトリック文学も 他の文学と同じように人間を凝視することを第一目的とするのです。それを歪めることは 絶対にゆるされない。極言を弄するならばカトリック文学は神や天使を描くのではなく 人間を 人間のみを探求すれば それでいい。また カトリック作家は決して聖人や詩人ではない。聖人や詩人の目的は ひたすらに神をながめ頌め歌うことにある。けれどもカトリック作家は 作家である以上何よりも人間を凝視するのが義務であり この人間凝視の義務を放擲する事がゆるされない。
遠藤周作カトリック作家の問題 《吾が顔を見る能はじ》所収)

それでは遠藤は この《人間凝視の義務》を怠って  《どうでもよいのではない神の領域》に足を入れたのであろうか。そうではない。キリストを永遠の同伴者として捉えることも 確かに《同伴者イエスの・弟子たち人間による発見》と言っているのであるから この《人間凝視》の姿勢は すべて遠藤において一貫しているわけである。そこで なおかつ わたしたちが ここに曖昧なものが残ると主張するのは 当然のごとく どうでもよい事柄とどうでもよいのではない事柄とが そのようにカトリック作家の姿勢をつらぬくことによって 混同されているのではないか ここにあるということになるでしょう。
《同伴者イエスの発見》という人間の事柄が  《イエスが復活したっていうことです》というふうに どうでもよいのではない事柄として 規定されるようになったからです。
また このことは わたしたちが遠藤に対して カトリック作家の人間凝視の姿勢をそこでも つらぬけ つまりあの小説の作法の限界を見すえよなどと説くために言うのではなく 上にも見たように この限界の内と外とは 人間にとって確かに まったく二つの領域として分け隔てられているものなのではない――人間は そもそもそのように 二段構えで生きるのではない――ことを 確認するために言われるべきものだと考えます。しかるに 遠藤の議論には この点にかんする曖昧さが残るということになります。
議論の出発点は 新しく言いかえて こうです。《同伴者イエスの発見》――なぜならそれは 確かに信仰の心理的な裏付けなのですから――は 今度はわたしたちのこの世に属する事柄です。《イエスの――と言わずとも 人間の・肉の――復活》 これは この世に属していない事柄でした。
しかももし イエスの復活――肉における復活――を信じる人が キリスト者であるとすると このどうでもよいのではない事柄は 人間の信仰として 人間のどうでもよい領域にかかわりを持っている。したがってこれが 《〈カトリック作家の問題〉の問題》であると正当にも われわれは言うことが出来るし 言って この問題をむしろ正当にもあの《人間凝視の義務》をつらぬき 人間的にも理性的にも 争わなければならないと考えられます。
ここでしたがって われわれの第二の結論とも言うべきものは こうです。イエス・キリストは 人間の永遠の同伴者ではない。また もしこのこと(同伴者であること)が正しいとして しかし この認識は――つまり人間凝視の結果みちびき出されたこの把握は―― ただ信仰の心理的な裏付けであるものにすぎず それは どうでもよい事柄である。そしてこの後者は われわれの第一の結論の内容であったものです。
第二の結論は 《〈キリスト・イエスは 人間の永遠の同伴者である〉のではない》 これです。
じつに神(――人間のどうでもよいのではないもの――)は 永遠に主なる同伴者であるのではない。人間のどうでもよいのではないもの たとえば真理 はおそらく 永遠のものであるでしょう。または 永遠などという概念をいじくって 大いなる幻想とするべきではないという考え方も どうでもよい小さな存在として どうでもよいがゆえにいつくしまれるべき人間にとって 永遠なる真理である――つまり 対偶命題はつねに真である――ということになるかとも考えられるのです。
しかるに 神(もしくは 神とは呼ばないで 永遠の・もしくは真なる存在)は しかしながら 人間にとって 永遠に同伴者であるのではない。とは正当にも人は言い出すべきであり たしかにまさしくそのことを観想すべきであるとは言うことができる。
なぜなら 人は 時間的な存在であり その意味でどうでもよい事柄(関係)の中に生きており なおかつ信仰は――つまり どうでもよいのではない 時間の概念では捉えることのできないものの 信仰そして信仰としてのなんなら科学的な認識は―― そうであるなら この世で 時間的に生起してくる。ゆえに 神は――と言ってもはや唯物論者とのつきあいをすでに捨象してしまうなら―― 永遠に同伴者であるのではない。
もっとも ここで再びわたしたちは 遠藤の議論からその答えを捉え 対面することになります。《人間は神をえらぶか 捨てるかの自由をもっている存在である。この人間の自由を文学に賭けるのが カトリック文学です》というのが かれの議論だったからです。遠藤はここで ほんとうのところ 《キリストは永遠の同伴者であるのではない》との人間凝視の姿勢を 確かにつらぬいている。その前提条件のうえに 《キリスト・イエスは人間の永遠の同伴者である》という議論をみちびきだしていることになります。
それでは これに対してわたしたちは 何と言うべきでしょうか。ここではもはや わたしたちは カトリック作家の問題の問題があると言って逃げるわけには行かない。なおかつ この問題の問い求めをつづけなくてはならない。
しかしわたしたちは これに対して ただしくキリストは人間の永遠の同伴者であるのではないとのわれわれの第二の結論をもって 対処することになります。
言いかえると 《〈カトリック作家の問題〉の問題》というむしろ自己の存在について その冪(連乗積)をもってこたえるでしょう。こういう問題を持ち問いつづけることこそ こたえであり その動態がわたしであると。この自己を自乗し またこれに自己を掛けていくはずです。遠藤の表現を借りるならば この人間の自由に賭けるのが われわれの――ここでキリスト者の――問題であると。あのどうでもよいのではない事柄への 解決でないなら少なくとも問い求めの場をもって こたえつづけると。

  • 同伴者であるという規定をもって答えとするというのではなく これを問い求めるというその自己の自乗過程をもって 問いであり答えであると ひとまず答えるということになります。
  • ① 人は時間的な存在なのだから 永遠の同伴者を持つということも 正確には間違いである。② ただ このことは 遠藤も承知のうえで 永遠の同伴者説を提出している。③ かといって そのように答えを出し切ったという姿勢は 人間凝視の姿勢とその義務とに違反していないか。④ 神は永遠に主であるのではなく 友となるとも言われている。その《友》と 《同伴者》とは果たして 同じだと捉えてよいのか。こういった課題も 見えているといえば見えている。
  • はぎれが悪いけれども いまはこのように。――

(つづく→2005-11-04 - caguirofie051104

*1:《吾が顔を見る能はじ》所収1979北洋社