caguirofie

哲学いろいろ

文献資料その他

もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620
関連サイト→世間の常無きことは知るらむを心尽くすな大夫にして - 久遠の絆ファンサイト はてな050727下記の書物の紹介・その他同サイトの関連記事

日本の神々―『先代旧事本紀』の復権

日本の神々―『先代旧事本紀』の復権

  1. 《先代旧辞本紀》本文は読み終えていない。
  2. 降臨伝承に二つある。神武カムヤマトイハレビコの祖のニニギノミコト天孫(または皇孫)降臨のほかに・そしてそれより以前に ニギハヤヒのミコトが河内の国河上の哮峰(たけるのみね)に降臨するという。
  3. 物部氏であり 布留の石上神宮→大神(おほみわ)神社=オホモノヌシ=三輪イリ日子→オホクニヌシ・スサノヲ・・・とつながる。いわば国譲りする側である。
  4. わたしの場合 仮りの想定として 神武イハレ毘古の側を 呉の倭人の系譜ではないかと捉え 決して興味本位ではないけれど 物部ニギハヤヒの側は 越の倭人のそれではないかと想像してみた。→2005-07-18 - caguirofie050718
  5. 両者とも この日本に同化したのであるが 大陸の地でその社会的地位の高かったことに誇りを持っていた。それが災いしたものか。
  6. この書物に関するかぎり 物部氏もしくはこの《旧辞本紀》の著者は 完全には クニユヅリをしていないように感じられる。
  7. その一番の問題は イリ日子歴史知性とその先取りした形態としてのワケ・タラシ日子知性とが この世で ウタの現実として 互いに入り組み錯綜するという事態を まだ飲み込んでいないようであることにある。別の言い方をすれば イリ日子入リ日女が その歴史知性の同一に留まりつつも そのむしろ誇るべき弱さのゆえに 墜落したということの自覚の有無にあるのではないだろうか。みづからも 禁断の木の実を食べたか その食べることに同意したかである歴史を 踏まえて ものを言っていないように思われる。
  8. 印象としては 軍事および神事に詳しい自らの血筋とその栄光に誇りを持ちすぎている。そして 三種の神器なり十種の神宝なり この世の鏡としての模像にこだわりすぎていると見受けられる。(著者らの語り口のゆえか。)目に見えない生命の木としてのオホモノヌシもしくはヒトコトヌシの意義が なくなってしまわないか。
  9. 《天禅日天狭霧国禅日国狭霧尊(あめゆづるひあめのさぎりくにゆづるひくにのさぎりのみこと)》とは なにものなるや。→天日天狭霧国禅国狭霧尊:卯の花を腐す長雨の始水に寄る木糞なす寄らむ子もがも - 久遠の絆ファンサイト はてな

アマテラスオホミカ

  1. 一般的な太陽神と天皇家の祖神とのふたつの性格をもたせられた。
  2. 西宮一民説(抄録)

・・・天照大御神は初め宮中に祭られていたが その神威を畏(かしこ)み 宮中から処々を巡って伊勢国度会(わたらい)郡五十鈴(いすず)川の上(ほとり)に遷(うつ)した(紀・垂仁・二十五年三月条)。伊勢神宮の内宮(ないくう)(伊勢市宇治館(たち)町)の縁起譚(えんぎたん)である。


  天照大御神の御杖代(みつえしろ)(神の降臨される杖の代りになるもので 神と同じ機能をもつ)として 天皇の皇女を奉献した。この皇女を斎内親王(いつきのひめみこ)(斎王)という。天武天皇時代に制度としての斎宮(さいくう)が成立した。


  記に掲げる斎王は いうまでもなく制度化以前のことであるが 崇神天皇の段の豊鋤(とよすき)比売命 垂仁天皇の段の倭(やまと)比売命 継体天皇の段の佐々宜(ささげ)王の三名である。他にもあったかもしれないが あるいはこの三例だけかもしれない。しかし少なくともこの三例には曰(いわ)くがありそうである。


  第一例は《初国知らしめしし》崇神天皇の時代に懸けたものであろう。この時代は《魏志倭人伝と照合すると 《彦姫制》の政治体制であったと考えられるので 斎王の原点をそこに求めたとしても不思議ではない。


  第二例は 景行天皇の時代における倭建(やまとたける)命の全国制覇の精神的支柱として伊勢神宮が注目されたものであろう。


  第三例は 新羅と通じた筑紫君石井の反乱という国家的危機に直面した時代的背景が考えられる。


  こういう理由で この三名にのみ《伊勢の神の宮を拝(いは)ひ祭りたまひき》と記載しているのであろう。


(西宮一民:古事記 新潮日本古典集成 第27回 p.358)

伊勢の大神―神宮の展開

伊勢の大神―神宮の展開

古事記崇神天皇の条には 豊鋤比売命(トヨスキヒメノミコト)について 「伊勢大神の宮を拝祭」 垂仁天皇の条には倭比売命にかんしてやはり「伊勢大神の宮を祭らしむ」と注記する。そして日本書紀景行天皇二十年二月の条に 「五百野(いほの)皇女を遣わして 天照大神を祭らしむ」などと述べる。しかし これらの伝承の史実のほどは明らかではない。
日本書紀雄略天皇元年三月の条には 稚足(ワカタラシ)姫皇女が「伊勢大神の祠に侍る」と記す。また継体天皇元年三月の条には荳角(ササゲ)皇女がやはり「伊勢大神の祠に侍る」とある。
雄略朝以後の斎王関係伝承はかなりの信憑性があり 欽明天皇二年三月の条の磐隈(イハクマ)皇女が「初め伊勢大神に侍り祀る」の記事からあとの斎王にかんする記録は 確実視してよいであろう。もっとも磐隈皇女について「初め」とあるのは 日本書紀本文の述べるとおり 茨城皇子に豻(おか)されて解任されたためであった。
倭王権の大神として伊勢に祀られていた日神が 皇祖神つまり「皇霊」の祖として明確になるのは さらに時代がくだる。敏達朝の菟道(うぢ)皇女 用明朝の酢香手姫皇女の斎王派遣以後 天武朝まで斎王の派遣がみえないのも まだ倭王権の「日神」であって 皇祖神としての神統譜における地位を確立していなかったこととあるいは関連するかもしれない。
天武・持統朝は 皇祖神信仰がいちだんとたかまりをみせた時期であった。・・・
(p.14)

(未完→2005-07-30 - caguirofie050730につづく。)